ヌプンケシ241号

2012年6月15日

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市史編さんニュース NO.241

タイトル ヌプンケシ

平成24年6月15日発行


◎北見の米づくりと三輪光儀(3)

◇明治27(1894)、上川で旭川屯田の米作りが公認

 大正3年(1914)5月北海道庁拓殖部発行、上原轍三郎著『北海道屯田兵制度』には「上川地方ニ於テ水稲ヲ作ルニ至レル第一ノ耕作者ハ実ニ屯田兵ニアリキ、抑(そもそ)モ同地方ニ於ケル水稲栽培ノ沿革ヲ見ルニ明治二十六年頃ヨリ屯田兵ノ内ニ或ハ渡道ノ際携帯セル水稲種子ヲ播種シ或ハ又態々(わざわざ)郷里ヨリ種子ヲ送附セシメテ之レヲ試作スルモノアリタルニ成熟シテ完全ナル結實ヲ見ルニ至リ此ノ地方ノ強(あなが)チ水田ニ適セサルニアラズシテ単ニ品種ノ問題ナルコトヲ知ルヤ大ニ喜ビ、偶々(たまたま)明治二十七年千歳郡島松村中山久蔵ナルモノ自作ノ水稲種子一石ヲ旭川一兵村ニ寄贈シ来リ、水稲試作ノ機運漸々相熟シ遂ニ同年十一月ヨリ兵村ノ事業トシテ灌漑溝ヲ設ケ水田ヲ作リ以テ米作ニ従事セシ(後略)」と、上川地方の旭川屯田で明治27年に兵村事業として灌漑溝が掘られ、水田が造成されたことが明確に記録されています。

◇「坊主」と「たこ足」

 農民や屯田兵は寒さに強い品種作りに全力をあげ、明治28(1895)新琴似兵村の江頭庄三郎氏は、赤毛から籾に毛のない新品種「坊主」を発見しました。最初は籾の毛落としの手間をはぶくために栽培されましたが、赤毛以上に栽培成績がよいことが明らかになり、急激に植付け面積が増えました。この坊主の最大のメリットは、直播(じかま)きにむいていたことでした。道内の水田農家は他府県にくらべ経営面積が広く、田植えの労働力が不足していました。この問題を解決し、稲の成長期間の短縮を目的に採用されたのが直播き方式でした。

たこ足 米作りは石狩から空知に広がり、明治末年には上川方面に北上しました。そのきっかけは明治33(1900)の第七師団の旭川移転で、軍馬飼料の稲藁の需要が増大したからだそうです。

 さらに水田を整備するために明治35(1902)「北海道土功組合法」を公布され、全道各地に土功組合が設立され、畑が水田になっていきました。その整備資金を融資した銀行の一つが、明治33(1900)創業の北海道拓殖銀行でした。

 明治38(1905)には、東旭川屯田兵であった末武安次郎氏が「水田籾種蒔器(すいでんもみたねまきき)」通称「たこ足直播器」を考案、ブリキ職人黒田梅太郎氏に製作させ、共同で特許を得ました。新発明の「たこ足」で種籾を効率的かつ規則的に播くことができるようになり、生産性が向上しました。右の写真はその「たこ足」です。

 この庶民の創意と工夫の結果である「坊主」と「たこ足」の組合せで道内の稲作は一挙に拡大していきました。

◇オホーツク管内の米作りの最初は?

 オホーツク管内の米作りの最初については、昭和54(1979)3月発行の『北見農業試験場70年のあゆみ』に「明治23(1890)が網走管内における稲作の最初であると記録されている」とありますが、残念ながらこれも根拠、出典が明示されていません。

 これに関して筆者が古い資料に当ったところ、明治23(1890)根室で出版された6巻本で著者の佐藤喜代吉氏が道内を6月1日から54日間旅行した記録『北海道旅行記』の「壹(いち)」に、網走の中島という人物から「本年は本郡に稲も出来たりとて此程同地より稲穂を送られたるが固(もと)より内地の稲に比すれば劣れるに相違なしと雖も亦以て同地の気候及地味の如何想像するに足らん」とありますので、多分これも根拠の一つにしたと見ています。

◇2例あった明治29(1896)の試作と嘱託試験制度

 また、昭和4年(1929)11月に発行された北見産米二十五万石祝賀会記念誌『北見の米』に「其ノ起原ハ明治廿九年斜里村飽寒別ニ於テ札幌赤毛種ヲ栽培セル記録アリ」とあり、明治29年に斜里村飽寒別(あつかんべつ)で札幌赤毛種が栽培された例があったようなので調べてみました。

 昭和30(1955)4月発行の『斜里町史』には次のように書かれています。

 「本町の最初の開拓者鈴木養太も、当時の永田戸長から明治二九年に札幌赤毛種の種籾をもらって、現在の岩越テイ所有地のところに土地を一尺ほど掘さげて穴のようにして、チェプウンナイ川の水を引いて5畝歩ほどの水田をつくり、二年ほどやってみたがついに稔を見ることがなく終ってしまった。『明治二十九年札幌赤毛稲ヲ試作セシニ成績良好ナリ』(『北海道殖民状況報文・北見国』)とあるところを見れば二九年にはいくらかとれたものと思はれる。」

 その『北海道殖民状況報文 北見國』とは、明治2910月3日より1115日まで、北見國を北海道庁の職員河野常吉氏が実地調査し、公文書等を参照して報告書を作成、明治31年8月に北海道庁殖民部殖民課から発行されたものです。同書の「北見國 農業」総論に「米モ亦明治二十九年網走分監及ヒ斜里郡赤上等ニテ試験シ能ク成熟スベキ見込アリ」とあり、「北見國斜里郡斜里村」の〈農業〉の項では「明治二十九年札幌赤毛稲ヲ試作セシニ成績良好ナリ」と確かにありました。赤上(あかがみ)とは斜里最初の開拓者鈴木養太氏が入植した場所の地名です。

 もう一つの「網走分監」については、同報文「北見國網走郡北見町最寄村」の〈農業〉の項に「分監農地ノ南網走湖畔ニ数戸ノ農家アリ其内一戸ハ水田ヲ試作シ蠶(かいこ―引用者)ヲ試養シ相応ノ収穫アリ」と書かれています。他の資料では平成20(2008)3月発行の『網走史年表』に出典は不明ですが、明治29年の項で「吉田甚松、最寄村レブンシリ(嘉多山)で水稲の試作に成功」とありました。平成4年(1992)3月発行『続 網走百話』にも同様の記述がありました。

 記録では明治29年の米試作は斜里と網走の2例だけですが、『北見農業試験場70年のあゆみ』に「上白石稲作試験場は明治26(1893)に創立され、道当局が稲作に積極的熱意を示した最初の試験機関である。ここから明治29(1896)に網走郡役所部内に種籾が配布され嘱託試験として適否試験が行われている。」とありますから、これらの他にも試作した可能性があります。

 嘱託試験については昭和26(1951)10月発行『北海道農業試験場史』に、明治26(1893)「嘱託試験制度を確立し、各地の精農を選んで、特別な農作物の試験を委嘱し、その結果をまとめて、奨励の参考とすることにした。」とあり、明治28年から稲を嘱託試験の品目に加え「上白石稲作試験場で収穫したものを各地に配布すると共にその適否を試験した」とのことです。

◇北見地方の米作りの最初も嘱託試験

 野付牛で北光社が明治31(1898)から水稲試作をしたのも、この嘱託試験によるものです。

 「北見地方の米作の始まりは、明治三十一年、北海道庁が北光社農場に対し、水稲の試作を委嘱した時です。この年から、農業管理人の前田駒次は毎年これを試作、三十五年にいたってようやく穂が稔り、これを脱穀、精白して北光社の農家に二合(約三百グラム)ずつの白米を配ることを得ました。」(清水昭典著『ふるさとの歴史を訪ねて』より)

 このことを記念して、「北見水田発祥の地」碑が昭和43(1968)11月5日、北光の新田橋を津別に向かって渡った道路の左脇に建立されました。機会があったら、お立寄り下さい。(続く)

 

《分庁舎だより》☆竹口係長が5月31日付で退職されました。竹口係長には短期間でしたが、編集委員会の立上げに尽力して頂き、大変お疲れ様でした。後任には6月1日付で資産税課から亀澤英幸係長が新任で配置されました。今後とも皆様にはよろしくお願いいたします。()

 

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