北見市の生い立ち

2011年2月8日

沿革

当市には、大雪山系を源とする常呂川が流れ、オホーツク海に注ぎ、その流域は豊かな山の幸、海の幸に恵まれ、太古の昔から人々が暮らし、近世には河口に漁 場の番屋が置かれました。
安政5年(1858)、この流域を探検した松浦武四郎は『戊午登古呂日誌』に当時の様子を記録しています。

明治2年(1869)7月に北方開拓のために開拓使が設置され、同年8月、蝦夷を北海道に改め、これを11カ国86郡に分けました。
当市の地域は宗谷を含む 「北見国」8郡のうち、常呂郡とされました。
なお、「北見」の名の由来は、明治政府に国名を諮問された松浦武四郎が「この地一帯を従来から北海岸と唱えて きたので、北の文字を用い、カラフト島が快晴の日には見えるので、北見としてはどうか」と進言したことによるものです。

明治5年 (1872)、開拓使は戸籍編製のために従来あったアイヌ集落(コタン)名を村とすることにしました。
常呂郡下には、トコロ(常呂)村・チイウシ(少牛) 村・トウフツ(鐺沸)村・ムエカヲツネ(生顔常)村・フトチヤンナヘ(太茶苗)村・ノツケウシ(野付牛)村・テシマナビ(手師学)村の7村があり、明治8 年(1875)括弧内の本字に改正されました。

明治15年(1882)開拓使が廃止され、札幌・函館・根室の三県が置かれ、北見国は根室県の圏域に入りました。明治16年、常呂村に常呂外六ケ村戸長役場が置かれたのが、当市行政の始まりであります。

明治19年(1886)には、三県を廃止し、北海道庁を設置し、本格的な開拓の手始めとして道路網の整備に着手しました。
当地域では中央道路の一環として 囚徒を使役して、網走〜上川間の「北見道路」を明治24年(1891)完成、あわせて各所に駅逓が置かれ、以後内陸部の開拓は飛躍的に進みました。

常呂村では明治28年(1895)、高知県の土佐団体が入地したのが草分けで、明治31年には岐阜団体が入地しました。
野付牛村では、明治30年5月に坂 本竜馬の甥、坂本直寛が率いる高知県の移民団、北光社が入地、同年6月と翌31年9月には屯田歩兵第4大隊が入地、開拓の主力となりました。

野付牛村の急速な開拓で、明治30年(1897)7月、常呂外六カ村戸長役場から野付牛・生顔常両村を分離、野付牛外一カ村戸長役場を設け、明治42年 (1909)年には北海道二級町村制を施行して、生顔常村を廃し野付牛村となりました。
明治44年(1911)、池田〜野付牛間に鉄道が開通したのと薄荷 景気が相まって経済的に発展し、大正4年(1915)4月、一級町村制を施行し、置戸・武華村を分離、大正5年4月には町制を施行、野付牛町と改め、大正 10年(1921)4月には端野・相内村を分村しました。
昭和7年(1932)石北線全通と道路網も整備され、商業・医療・各種機関も充実して、昭和17 年(1942)6月、市制を施行、北見国で初の市となることから野付牛町を北見市と改称しました。戦後も都市基盤を整備し、工場誘致、大学誘致など各種機 能の集積を図り、昭和31年(1956)9月には相内村を合併、昭和54年(1979)4月には人口10万人を突破した。農業では近年玉ネギの産地とも なっています。

常呂外四ヶ村戸長役場は大正3年(1914)4月に鐺沸村(現佐呂間町)を分離、大正4年4月には二級町村制を施行し、 四ヶ村を統合して常呂村となり、昭和25年(1950)11月、町制を施行して常呂町となりました。
開村以来、漁業を中心に発展を続け、現在では「育てる 漁業」を地域一体となって取り組んでいます。

大正元年(1912)11月、野付牛〜留辺蘂間に鉄道が開通したのを発展の鍵として、大正 4年、野付牛村から分村独立した武華村は、古くから有名な温根湯温泉とともに豊富な森林資源にも恵まれ、大正9年(1920)には森林軌道が敷設されるな ど林業が盛んとなり、大正10年(1921)町制を施行、武華村を留辺蘂町と改称しました。
昭和13年(1938)には町勢の隆盛とともに一級町村制を施 行しました。

明治30年(1897)に屯田歩兵第4大隊第1中隊が入地した端野村は、大正10年に野付牛町から独立。
昭和36年(1961)に町制を施行、端野町となりました。玉ネギ、ビールに欠かせない大麦など、「大地のレストラン」として多種多様な農作物が生産されています。

平成18年(2006)3月5日、これら市と町がそれぞれの歴史・個性を尊重しあって対等合併し、人口13万人の新「北見市」が誕生、石北峠からオホーツ クまで110km、一つの大きな流れとなって「ひと・まち・自然きらめくオホーツク中核都市」を目指し、新しい歴史が始まりました。

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