ヌプンケシ103号

2011年2月8日

北見市総務部 市史編さん主幹  〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-25-1039

市史編さんニュース NO.103
title
平成17年9月1日発行

yokury◎シベリア抑留と北見市民(6) 

◇シベリア抑留と哲学者 菅 季治 
 前号で紹介した清水豊吉氏の『俘虜追想記』と同じく、北見市民が忘れてはならない抑留記録として哲学者・菅 季治(かん すえはる)氏の遺稿集『語られざる真実』があります。

kan その菅氏について、ご存じない方のために略歴を紹介しておきます。
 菅氏は、大正6年(1917)7月19日、愛媛県宇摩郡津根村で父勝吉、母ツネを両親に七人兄弟姉妹の三男として生れました。一家は大正11年に野付牛町に移住、染物業を営みました。大正13年(1924)4月、中央尋常高等小学校に入学。昭和5年(1930)4月、野付牛中学校に入学。歩きながら本を読むなど、彼の「勉学態度は教師の驚嘆の的であり、学友の語り草」(『北見北斗高校四十年誌』)になっていたそうです。昭和10年4月、東京高等師範学校文科第一部入学。昭和14年(1939)東京高師第三学年修了して、4月には東京文理科大学哲学科へ転入学。そこでドイツ哲学の務台理作(1890〜1974)、ギリシア哲学の田中美知太郎(1902〜85)、両氏の薫陶を受けました。
 昭和16年(1941)3月、東京文理科大学卒業、4月旭川師範学校教諭に就任(心理学・論理学担当)するものの、綴方教育連盟事件の弾圧のあった直後で、種々統制の進む中で、学生の読書サークル指導の教材として、羽仁五郎著『ミケルアンヂェロ』(岩波新書)を使用したことに対する学校当局の圧力もあって、翌昭和17年9月には辞職。10月より京都大学文学部大学院で哲学研究の生活に入りました。短い教員生活でしたが、「青天」と仇名されるほど学生達には印象深い先生だったようで、平成4年(1992)8月、北海道第三師範学校昭和二十年卒同期会名で『旭川師範学校二年三組担任 菅季治先生を偲ぶ』という冊子が発行されています。
 昭和18年11月軍隊に召集され、北千島要員として北部第九一部隊(帯広)に入隊。昭和19年1月、小樽より北千島へ移動。3月、幹部候補生に合格、帯広へ。8月から千葉陸軍高射砲学校で候補生生活。昭和20年(1945)1月、高射砲学校卒業、見習仕官として満州関東軍に赴任。8月、奉天で武装解除。その後、シベリア送りとなりましたが、日本軍にロシア語通訳者がおらず、やむなくその役を引き受け、猛烈に独学しました。11月、カザフ共和国、カラガンダ収容所に到着。昭和24年(1949)11月に帰国するまで通訳者としての抑留生活が続きました。
◇徳田要請問題
 同年12月6日、菅氏は北見の実家に帰りますが、翌昭和25年1月には上京、文理科大学の後身である東京教育大学の聴講生として再び研究生活に戻りました。ところが、世界情勢は米ソ対立の時代に入り、2月、シベリアから戻った「日の丸組」が国会あてに、ソヴィエト将校が当時の日本共産党徳田球一書記長から「共産主義者になるまで、反動思想を有する者は帰国させるな。」とソ連に要請があったことを言明した、とする懇請書を提出し、真相究明を求めました。その関係通訳者として、菅氏の名前が挙げられていたのでした。3月2日には「これ以上この種の引揚計画の実情を座視するにしのびない」との対日理事会シーボルト議長声明が発せられ、日本政府による調査を促しました。
 この直後、菅氏は『朝日新聞』と『赤旗』に手記を送り、自ら徳田要請問題の通訳をした人間であることを名乗り出て、ソヴィエト将校は「いつ諸君が帰れるか、それは諸君自身にかかっている。諸君はここで良心的に労働し、真正の民主主義者となるとき諸君は帰れるのである。日本共産党書記長トクダは諸君が反動分子としてではなく、よく準備された民主主義者として帰国するよう期待している。」と言ったこと、それを通訳したことを明らかにしました。
 その後、彼は連合軍司令部に幾度も呼び出され、国会にも証人喚問されることになりました。
 自分が通訳したのは「要請」ではなく「期待する」であった事実を、孤立無援のまま、誠実に繰り返し証言しましたが、認められず、果ては「ソ連式共産党員」とのレッテルを貼られ、脅迫状まで寄せられるようになりました。昭和25年4月6日、彼は吉祥寺付近で列車に飛び込み自殺してしまいました。親友石塚為雄氏あての遺書には「あの事件で、わたしはどんな政治的立場にもかかわらないで、ただ事実を事実として明らかにしようとした。しかし政治の方ではわたしのそんな生き方を許さない。わたしは、ただ一つの事実さえ守り通し得ぬ自分の弱さ、愚かさに絶望して死ぬ。/わたしの死が、ソ同盟や共産党との何か後暗い関係によることでないことを、信じてくれ。/(中略)/人類と真理のために生命をささげようとしながら、わたしは、ついに何一つなし得なかった。しかし、死ぬときには、/人類バンザイ!/真理バンザイ!/と言いながら、死のう。」と書かれていました。享年32歳でありました。
 この事件後、抑留帰還者の間に「もの言えば唇寒し」の風潮が広がったと言われます。
 以上の詳細は、友人田村重見氏が編著者の私家版『友 その生と死の証し—哲学者 菅 季治の生涯—』、平澤是著『哲学者 菅季治 』(すずさわ書店)、北海道新聞発行『はるかなシベリア』の第2部「捕らわれた魂—菅季治の生涯」をお読み頂くと幸いです。
◇遺稿集『語られざる真実』

sin その遺稿集『語られざる真実』は昭和25年(1950)8月に筑摩書房から発行され、その横帯には「『徳田要請』の証人として衆、参両院に喚問をうけ、はげしく対立する政治的圧力の間に悩んで、自ら命を断った若き哲学者が遺した手記はソ連にある俘虜の実相を綴るに止まらず、真実をつらぬかんとして戦う今日の知性の立場を切々と訴えよう。」とありますから、どうしても政治的な弁明の遺稿集と見られがちですが、興味深い抑留の記録であります。ノンフィクション作家、澤地久枝氏も、『デカブリストの妻』とあわせて『語られざる真実』を昭和27年に読んで以来、「生涯の本」とされ、管氏が抑留されたカラガンダまで現地取材に行かれ、それらをもとに昭和63年(1988)に『私のシベリア物語』を発表されています。それだけ読んで頂きたい本ですが、残念なことに、現在は絶版で、古本でも入手が困難で、「幻の本」と言われています。
 内容は、哲学の恩師・務台理作の「序文」にはじまり、軍隊に入ってから捕虜になるまでのことを書いた「ソ連へ」。収容所生活の様子を記した「カラガンダ俘虜収容所」。捕虜などの群像を描いた「俘虜(ウオエンノプレンニク)」。昭和24年12月、北見市の実家へ帰ってから、死ぬ直前まで書かれた「日記」。務台理作、石塚為雄氏らあての「遺書」。国会議員と菅氏との遣り取りを記録した「参議院特別委員会会議録(抜粋)」、「衆議院考査特別委員会議録(抜粋)」。最後に当時一流評論家臼井吉見、唐木順三、中島健蔵、森 有正と務台理作、石塚為雄らによる「座談会『菅季治の死をめぐって』」があります。なお、同書は図書館に所蔵されています。

《中庭だより》
☆8月24日、旧議場傍聴席跡がアスベストに汚染されているということで密閉作業が行われ、そこにあった倉庫から緊急避難で、販売用市史類60箱以上が当事務室に移動しました。今後は自分の管理する狭隘な空間で、いかに保管場所を確保するか、すごく悩んでいます。(ため息)