ヌプンケシ121号

2011年2月8日

北見市総務部 市史編さん主幹  〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-25-1039

市史編さんニュース NO.121
 タイトルヌプンケシ
平成18年6月1日発行

◎常呂川の流れから(3)
 今号では幕末の探検家、松浦武四郎(1818〜1888)が記録した常呂川周辺の様子を報告して見たいと思います。なお彼の略歴は、当ニュース第4号に書きましたので、ご参照下さい。
◇松浦武四郎 最後の探検
 安政四年(1857)9月、幕府より松浦武四郎に東蝦夷地探検の召し状が出され、11月に改めて山地図川地理取調方の辞令が交付されました。
 翌安政五年(1858)1月24日、第6回、彼にとって最後となる蝦夷地調査のため、箱館を出発しました。
 「箱館を出てから国縫、長万部を経て一月二十九日に虻田に着き、それより道央、美唄、神居古潭を越えて美瑛に達したのは三月四日である。これより一路南下して三月十六日帯広に達し三月二十三日釧路に着いている。釧路からは大楽毛を経て、阿寒に入り、美幌経由の斜里に達する、有名な網走越えを行って、四月十九日厚岸、四月二十五日根室に達した。根室から標津に達し、それより知床半島を舟で一周して五月七日斜里に達した。これにより再びオホーツク海沿岸を北上し十三日常呂に達した。
 翌日、常呂川を遡上して十五日野付牛村に達し、十八日常呂に戻り、以後湧別を経て宗谷に達し、これより道央部を南下して七月二十七日浦河に達し、これより室蘭を経て八月二十一日箱館に帰着した。全行程二百四十日に渉る大踏査であった。彼はこの行を最後に、体力の限界を知って蝦夷地の踏査を断念したのであった。」
 年齢も40歳になって1月から8月まで(旧暦なので新暦では2月から9月まで)、北海道を一人で縦横に跋渉し、その見聞を漏れなく記録した松浦武四郎という人物の情熱には驚嘆させられます。ただのお役所仕事ではない、使命感を感じて調査を進めていたということでしょう。『北見市史』編集委員長であった鈴木三郎先生は、武四郎の心情を次のように評しています。
 「長い生涯に渉っての踏査持続の根源は、彼の北海道に寄せる厭くことのない探求心であった。この北海道への執心は、蝦夷地の自然や動植物に対して次第に親愛の情を持つに至り、その行きつく処、蝦夷人に対する親近感となっていった。当時彼が仕えた幕府を含めた北海道の統治者が蝦夷人に対し過酷な圧制を続け、又その手先である商人の搾取の下に呻吟しつづけていた蝦夷人に対し、彼の上司である為政者の意図とは反対に、深い憐憫の情を投げかけていった。」(以上の引用、いずれも『北見市史』上巻より)
◇念願のオホーツク内陸部実地調査
 松浦武四郎はこの探査が最後になると思ったのか、かねてから念願であったオホーツク方面内陸部の実地踏査、実態確認のために、オホーツク海に注ぐ主要河川を逐一遡上しました。常呂川もその一つで、その記録が『戊午登古呂日誌』です。その概略を見ることにしましょう。
戌午登古呂日誌の概略図 1858年5月13日トコロコタン(現在の常呂市街)についた武四郎は、アイヌの家10戸のうち7戸から各1人〜2人が宗谷場所に強制稼働に出され、残された家族の大部分は老婆や幼児であったと記しています。
 武四郎は、翌14日にはアイヌ3人(アヘセトル、イコツハ、サケバナ)を案内に常呂川を舟で溯りはじめました。最初、舟に乗った場所は、川幅64〜65mで流れも緩やかでしたが、3丁(約300m)ほど上ると急流の浅瀬で、川幅約110mの大川となり、両岸は樹木がなく一面の茅野原でした。5丁ほど上り、ベツモシリ(川中島)という処に到ると両岸に樹木が生えだし、赤楊、柳、楓等が目立ち始めました。約12、3丁言った処にシュブヌントウ(ウグイの産卵沼)があり、ここは現在の常呂町4号と旧湧網線の交点附近です。次にアネトイ(遅い畑)という処を過ぎました。暫く上るとチトカンニ(射てそれに当てる)という処に達しましたが、これは岡の上にあった一本の桂をアイヌ達が神木とあがめ、川を舟で上下する時、この木を的に矢を射て、うまく当れば狩猟が上手な証拠だとしたところから生れた地名だそうです。さらに上流にシネコムニウシ(柏があるところ)がありました。
 チベツカウシ(川の前に山があるところ)に達した時、クトイチャンナイに住むアイヌ女性2人と出会いました。彼女らは物々交換にトコロへ下る途中でしたが、案内のアイヌ達から番屋番人の不在を知ると交換品(すだれと雁皮)をそこに置いて上流に戻ってしまいました。
 溯上は大分進んで、左右に山が迫るところに近づいた頃、アシリヘツ(新しい川)というところに着きます。そこには、川筋を残して枯れた古川と満々と水を湛えた新川がありました。その新川の方には流木が寄せ集り、積み重なって川を堰止めている形になっていました。これ以上は舟でいけないと判断した武四郎はアヘセトルと古川床を約10丁ほど歩きました。ところが残した筈のアイヌ二人は舟を寄木の下の川に潜らせて難関を突破、武四郎達から1丁ほど上流に着いて、二人を待っていました。
◇輸送に適さなかった川
 ここで話がちょっとそれますが、市民の皆さんは「常呂川は大きな川」と漠然と思っているかもしれませんが、先の武四郎の記録にもあるとおり、幅はあっても浅く急流です。上流で洪水があると、崖や川岸が崩壊して、巨木が川中に倒れて流され、それらが川の強いカーブの所で寄木となりました。明治時代、野付牛の北光社や丸玉工場では、常呂川を輸送に利用しようとしましたが、この寄木(当時は「木詰り」といった)に悩まされ、幾度も川浚いをしましたが、常時舟で行き来するのに支障のない状態に維持できず断念、結局、輸送量が少なく運賃が高い馬や馬車に頼ることになりました。もしこれで常呂川の川底が深く、流れもゆったりしていれば、物資輸送の大動脈となり、常呂は北見地域の海の玄関口として機能し、この地域全体の発展交流ももっと違った形になっていたことでしょう。(続く)

《中庭だより》
☆5月17日、南中学校の恩師=和田泰次先生(80歳)が来室され、大通り東1丁目にあったご実家、和田商店関係の資料をご提供下さいました。お元気なご様子に筆者が勇気付けられました。
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