ヌプンケシ141号

2011年2月8日

北見市総務部 市史編さん主幹  〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-25-1039

市史編さんニュース NO.141
 タイトルヌプンケシ
平成19年4月1日発行

◎北光社初代社長、坂本直寛の前半生

 坂本直寛(なおひろ)については、北見市民であれば「坂本龍馬の甥で、開拓移民団の北光社の初代社長、牧師」くらいの知識があれば良い方で、何も知らない人の方が多いと思います。
 今回は坂本直寛の、あまり知られていない前半生をレポートしてみたいと思います。まず手始めに『日本人名大辞典』(講談社)を開いてみると、次のように紹介されていました。
 「さかもと−なおひろ【坂本直寛】(1853−1911)明治時代の自由民権運動家、牧師。嘉永かえい6年10月5日生まれ。高松順蔵の次男。母は坂本竜馬の姉千鶴。竜馬の兄直方の養子となる。立志学舎にまなび、明治14年立志社の『日本憲法見込案』起草委員となる。のち北海道で開拓や伝道につとめた。明治44年9月6日死去。59歳。土佐(高知県)出身。幼名は習吉、のち南海男なみお。筆名は才谷梅次郎。」直寛の孫にあたる土居晴夫氏が書かれた『坂本直寛の生涯』によれば、高松習吉(後の坂本直寛)が17歳の明治2年(1869)、坂本の本家である直方(四代目権平)の養子になりました。養父は明治4年(1871)7月に死去、習吉が家督を継ぎ、その前後に南海男と改めたそうです。直寛と改名したのは、明治17年(1884)12月になってだそうです。
◇立志社と立志学舎
坂本直寛の生涯表紙 先の説明にある「立志学舎」とは、「立志社」が開設した学校でした。その「立志社」とは明治7年(1874)5月高知で結成された自由民権運動の代表的地方政治結社で、板垣退助を中心に、片岡健吉・林有造らを幹部として士族を結集、教育・士族授産・民権運動を展開しました。明治10年(1877)西南戦争で西郷軍に呼応する動きもあったが明治政府の察知もあって、言論戦に転換し、片岡を代表として国会開設を要求する建白書を明治政府に提出したが、ただちに却下されました。これを契機に愛国社、国会期成同盟、自由党へと発展する勢力の中心的存在が立志社でした。この結社は、自由党の創立に際して、高知で結成された海南自由党へと発展的に解消されました。
 当初この立志社の事務所に、立志学舎が併設されました。同学舎は明治9年1月から英語普通学科を設け、慶応義塾の卒業生江口高邦と深間内基を英語教師に迎えました。同年8月、立志学舎は中島町の板垣退助の旧邸に移りました。「立志学舎の教育方法は注入式を取らず、生徒相互の研究を重視し、理解できないとき、はじめて教師が教えた。」
 現存する学舎の資料には、明治9年7月から生徒として南海男の名前が見えるそうです。「南海男の英語読解力は優れていたらしく、当時、まだ翻訳されていないハーバート・スペンサーの『社会静論』(Social Statics)などの原書を取り寄せ、英国政治思想の吸収に努めた。その外ジョン・スチュワート・ミル、トマース・バビントン・マコーレー、フランソワ・ギゾー等の著書も熟読し、後に民権派の機関紙『高知新聞』などに発表した数多くの政治論文・演説に引用した。」
◇坂本南海男、花形弁士として登場
 明治10年(1877)の西南戦争という政情不安な状況にあって、「立志社の言論派は、片岡健吉の民撰議院開設建白書奉呈に呼応し、演説会を開いて自由民権を叫びはじめた。この時期、坂本南海男は花形弁士として登場する。/明治十年六月七日、播磨屋橋に近い蓮池町(現・はりま町二、三丁目辺)の西森拙三宅で、立志社演説会が催され、坂本南海男・植木枝盛・吉田正春らの少壮論客がデビューした。/立志社は以前から演説会や討論会を開いていたが、それを公開し、大衆化したのは植木のプランであったといわれる。」(以上『坂本直寛の生涯』より)
 その建白書は民権運動の3大綱領とのいうべき国会開設・地租軽減・不平等条約の撤廃を掲げ、その結果、明治13年3月の第4回愛国社大会には、2府22県8万7千余人の署名を持った114名の代表が参集して、組織を国会期成同盟へと発展しました。これに対して同年4月、明治政府は「集会条例」はじめとする弾圧でこれに応えましたが、同年11月の国会期成同盟第2回大会では、各地の結社で憲法見込案を研究することが決議されました。翌年、明治14年の国会開設要求の署名者は全国で24万人に達したそうです。演説会は大衆に人気で、毎回押すな押すなの大盛況だったそうで、直寛も「政談演説会を起こして頻に苛激なる自由論を唱えたり。演説会毎に必す警官隊と青年との争闘あらざるは無かりし。また巡査、兵隊等と喧嘩して騒動を引き起こさんとせし事幾回なりると知らざりき」と当時を回顧しているくらいです。
◇政治家として活躍
 明治14年(1881)5月には立志社でも憲法調査局を設け、「日本憲法見込案」起草に取り組み、南海男は起草委員の一人に選ばれましたが、実際に起草したかは不明とのことです。
 同年7月、北海道で政商に対する「官有物払い下げ事件」が起こり、国民はその不公平に烈火のごとく怒り、政府を批判しました。これに対して、明治政府は払い下げを中止し、国会開設に理解を示した大隈らを追放し、明治23年に国会を開設するとの勅諭を同年10月12日に発して、いわゆる「明治14年の政変」で主導権を取り戻しました。これを受けて、同年10月29日、日本で最初の政党「自由党」が結成されましたが、政府の巧みな懐柔と弾圧で内部分裂し、明治17年(1884)10月には早くも解党してしまいます。
 明治17年6月6日、坂本南海男は、土佐郡の県会議員補欠選挙に当選しました。その後、県会の民権派は、県行政の長である田辺県令と「新道開鑿・浦戸港浚渫」を巡って対立し、南海男も反対の論陣をはりましたが、明治18年11月小差で敗北しました。明治19年1月の県会議員選挙では直寛として再選を果たして、その後も議員として活躍しました。
◇三大事件建白で投獄
 明治19年10月、英国人乗組員のみがボートで逃げ、日本人23〜25人が溺死したノルマントン事件が起きて、船長が無罪になったことから不平等条約の撤廃が叫ばれ、明治20年(1987)10月初旬から「言論の自由・地租軽減・外交失策の挽回」を要求して「三大事件建白」運動が民権派を結集して展開され、高知県をはじめとして2府35県と北海道の各代表が上京し、元老院を訪ねました。直寛も片岡健吉らと共に、総代として上京しました。同年12月15日には2府18県の総代が会合して、建白を天皇に上奏すること、伊藤総理にそれを突きつけることを決議しました。12月25日には保安条例が発布され、翌26日には建白運動の中核勢力約570人を一斉に東京から追放し、退去を拒否した直寛や澤本楠彌、片岡ら16人は投獄されてしまいました。
 明治22年(1889)2月11日「大日本帝国憲法」の発布の大赦令により、全ての政治犯は釈放され、直寛も3月には高知に帰りました。8月には最初の妻、鶴井が義妹と海水浴で溺死するという悲劇にあいました。それでも明治23年3月30日の県会議員補欠選挙で当選を果たして政界に復帰しています。このように、坂本直寛の前半生は自由民権運動家であったのです。 

《中庭だより》
☆3月31日で、北見市史編さん委員と『北見現代史』編集委員の任期が満了しました。皆様には本当にありがとうございました。また、市史編さん主幹も4月1日付けで異動があり、私、幾島が担当することになりましたので、今後よろしくお願いいたします。