ヌプンケシ145号

2011年2月8日

北見市総務部 市史編さん主幹  〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-25-1039

市史編さんニュース NO.145
浦臼沼ほとりの直寛居宅写真
平成20年6月15日発行

北光社初代社長 坂本 直寛(4)

◇麻疹(はしか)の猛威
 直寛の記述によれば、開墾地に着いてからも麻疹の猛威は衰えず、体力の落ちた子供で死ぬ者が多く、総数35名を下らなかったそうで、子供を亡くして開拓の気力を失った家族も少なくなかったようです。それにしても35名とは大変な数字ですね。昭和32年の『北見市史』にある船中で30名の病死者というのは、これとの混同があるかもしれません。「移民が初めてクンネップ原野に打ち下ろした鍬が開墾のための喜びと希望を託した鍬でなく、愛児や親しき者を葬る悲しみと涙の鍬であったと語る古老たちの思い出は忘れてならないであろう。この悲しみと涙の大地の上にこそ、今日の北見は育ち成長しているからである。」(『北見市史』上巻より)
◇坂本直寛、北光社農場を離脱
 「やがて麻疹も沈静し、開墾はようやくはかどり、種蒔きも終わり、万事平穏に戻ったので、私はいったん高知に帰ることになった。八月二十七日、事務員とその家族を伴いクンネップ原野を出発、帰途空知の農場を訪問し、また武市農場に数日滞在、帰る道すがらところどころで説教をしながら、十月二日高知に帰着した。私が帰ったのは翌年の移民を募集するため、また私自身が家族を連れ、来春北海道に移住する準備をするためであった。」
 しかし、直寛はクンネップ原野には二度と戻りませんでした。翌年、明治31年(1898)5月12日、家族を連れて高知を出発、25日に樺戸郡月形村ウラウシナイ(現・浦臼町)に移住しました。この浦臼移住について、直寛は次のように弁明しています。
浦臼沼ほとりの直寛居宅写真
浦臼沼ほとりの直寛居宅

 「北見クンネップ原野の北光社農場に移民を入れた当初、この地は将来の居住地であると思った。しかし、心のなかで一つの疑いが生じた。この地は果して神が私の永遠に住む所として定められたのかどうかということである。このことはいつも心にひっかかっていたので、いつもその答えを神に祈り求めていた。私はまた、政治活動についても未練があったし、北海道で政治上の理想を実現させる為にも、石狩原野に住む方が都合が良いと思った。しかし、なかなか決心がつかず、なお神に祈っていたのであるが、その年の7月の北光社株主総会で、実務はおもに澤本氏が担当することになり、私は必ずしも北見に居ることを必要としなくなった。そこで、石狩に住む方が神の御旨にかなうのではないかと思うようになった。/八月下旬、北見を出発し、帰途武市農場に立ち寄ったとき、この地に住居を定めるのについて好都合のことがあった。ちょうどいい具合に、主にある兄弟のひとりが、私の住むのに適した土地を売ってくれることになったのである。前からいろいろ思い悩んだことと、今土地を買うことが符節を合わしたように思われ、この地に住む気持を強めたのであった。」(以上は、土居晴夫著『坂本直寛の生涯』より引用)
◇離脱の原因は?
 結局、北光社社長であった直寛が現地にいたのは4か月余りということになります。
 この直寛が開拓地を離脱した原因については、前掲の直寛の言葉にあるとおり、直寛は政治活動に未練があって活動するのに交通の便が良い石狩を選択したのが第一で、次に実際の経営や営農指導は澤本や前田が担当しており、直寛が現地に留まる必要がなかったからでしょう。
 それと名寄市立大学教授=白井暢明氏は、平成12年に旭川工業高専研究報文で発表された『「北光社」農場・坂本直寛のキリスト教的開拓者精神』で、直寛が北光社社長になったのは「恐らく高知の自由民権運動家グループの中での彼の序列の高さ、巧みな言論による宣伝効果への配慮が彼を社長に選任させたのではないかと思われる。それは多分に名目的、名誉職的な選任であり、実務的な戦力としては最初から沢本や前田が信頼されていたのではないだろうか。(中略)『理論』と『弁舌』の知識人である彼は農業経験豊かで実務派の前田駒次や沢本楠弥とは最初からウマが合わず、少なくとも北光社の中で軽視されていたのではないか。それが彼の早期の離脱につながっているのではないかと推測される。」としています。
◇その後の直寛
 直寛は明治31年の石狩川の大洪水にあい、その治水と住民救済のために政治活動に復帰し、翌32年「石狩川治水期成同盟会」を組織するのですが、その救済補償費分配で中傷を受け、しばらく隠遁生活をおくりました。加えて33年(1900)に藩閥政治の親分=伊藤博文を総裁とする立憲政友会の設立に、旧自由党員が多数参加する腐敗を見て、直寛は政党と絶縁しました。
 明治35年(1902)2月に『北辰日報』に主筆として迎えられ、同年5月には夕張の炭鉱労働者が中心となり組織された労働団体=大日本労働至誠会の会長に推されたりしますが、同年8月札幌にきた日本基督教会植村正久の助言で伝道の使命に目覚め、その11月には旭川を拠点にピアソン宣教師と共に各地の伝道活動に奔走し、明治37年には牧師となり、軍隊や十勝監獄等への伝道を続けました。明治42年(1909)札幌に転居、北辰教会での教務代行の奉仕をして後、明治44年(1911)9月6日、札幌の北辰病院で胃癌のため昇天、円山公園に埋葬されました。(因みに帯広の六花亭が中札内村に建てた坂本直行記念館の画家=直行は直寛の孫に当ります。)
◇北光社農場から黒田農場へ
 直寛が離脱後の北光社農場の状況はどうであったかというと、「入地した翌年(明治31年—引用者)、移住民が集って会議をもった。到底こんな処におられない、もう少しましな処か大きな市街地の近辺に移りたいというのが一致した意見で、それを実行するには集団でここを去ろうという結論に達した。会合のその後の経過は今詳細に知ることはできないが、一気に五十名前後の集団がこの地を去ったのである。」(『北見市史』上巻より)その上、8月下旬からの長雨で9月7日には常呂川が氾濫し、拓いた土地と作物を流し去り、開拓民に大打撃を与えました。
 こうした結果、明治30年(1897)から32年までに移住してきたのべ221戸のうち、明治36年時点で残ったのは62戸と定着率は低く28%でした。
 経営責任を負った澤本楠彌は、洪水被害処理、交通・輸送条件整備、道庁等との交渉、鉄道敷設等々、地域の為に懸命に働きました。その後を継いだ前田駒次も経営の安定化を図りましたが、道会議員等の公職につく中で農場管理ができなくなり、大正3年(1914)北光社農場は黒田四郎に譲渡され、黒田農場となりました。この時、農地とともに小作人132戸(600余人)も引継がれ、以前よりも数段厳しい条件で新地主と小作契約が結ばれました。(後に小作人達は自治組合を組織し、地主と粘り強く交渉して昭和15=1940年に農地解放を勝取りました。)
 高い理想を掲げて出発した北光社でしたが、必ずしも成功したとはいえない最後でした。

《中庭だより》
☆前号のこのコーナーに地図などが入手困難なことを書いたところ、農業委員会のK課長さんが「こんな地図が手元にあるんだけど」と事務室まで持参してくれました。上ところの地図など貴重なものがありましたので、早速原本を寄贈頂きました。大変ありがとうございました。
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