ヌプンケシ166号

2011年2月8日

北見市総務部 市史編さん主幹  〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-25-1039

市史編さんニュース NO.166
 タイトルヌプンケシ
平成21年5月1日発行

◎『赤毛のアン』と小池喜孝先生
 『赤毛のアン』と言えば、小説を読んだことがなくてもフジテレビ系の「世界名作劇場」で昭和54年(1979)に放映され、その後何回も再放送されたアニメ(全50話)でご存じでしょう。原作者はLucy Maud Montgomeryで、カナダのプリンス・エドワード島を舞台に、赤毛でそばかすだらけの孤児アン・シャーリーを主人公にした青春物語です。その『赤毛のアン』と民衆史研究家(故)小池喜孝先生との意外な関係が分かりましたので、今号はそれを報告します。
◇翻訳者村岡花子のお孫さんからの電話
 本年2月13日、村岡と名乗る女性の方から当室へ次のような電話がありました。「市史編さんニュースのバックナンバーで小池喜孝先生に関する記事を読みました。昨年、祖母村岡花子の伝記を出版しましたが、その中で三笠書房の関係で小池喜孝先生について触れた部分があり、この度、不正確なところがあったのを知りましたので、今後、版を重ねる際に訂正したいと思います。」
 さて、その電話にあった村岡花子ですが、『赤毛のアン』を日本で最初に翻訳した人物でした。講談社「日本人名大辞典」によるとその略歴は次のとおりです。「【村岡花子】(1893〜1968)明治−昭和時代の児童文学者。明治26年6月21日生まれ。昭和7年から16年までラジオの子供ニュースを担当。全国的に親しまれる。モンゴメリー『赤毛のアン』シリーズの翻訳で知られ、社会教育委員としても活躍した。昭和43年10月25日死去。75歳。山梨県出身。東洋英和女学院高等科卒。旧姓は安中あんなか。 作品に童話集『たんぽぽの目』など。」
 電話してきたのは『アンのゆりかご/村岡花子の生涯』の著者、村岡花子の孫にあたる村岡恵理さんだったのです。
◇小池先生の略歴
 小池喜孝先生についてはニュース62号「民衆史研究家・小池喜孝先生ご逝去」でレポートしましたが、念のために再度略歴を紹介しておきます。
 小池先生は大正5年(1916)9月11日、東京都東村山市に生まれ、昭和11年(1936)青山師範学校を卒業後、小学校教師となりました。戦後は東京都教育労働組合の書記局員と活動しましたが、昭和23年(1948)「教職不適格者」として追放され、その後三笠書房に勤務しました。昭和26年(1951)公職追放解除後、昭和28年(1953)8月、北見北斗高校へ社会科教師として赴任、卓球部顧問として活躍、昭和41年(1966)に美幌高校に強制配転に前後して、「井上伝蔵」の調査研究を始め、昭和48年(1973)に北見工業高校異動後は民衆史運動を開始、昭和53年(1978)3月同校で退職、昭和57年(1982)10月には北見を離れ、埼玉県東松山市に転居され、平成15年(2003)11月28日に亡くなられました。著作は『鎖塚』 『秩父颪』 『常紋トンネル』等。
 この略歴にあるとおり、小池先生が戦後の一時期三笠書房に勤務していたことは筆者も知っていましたが、そこでどのような仕事をされていたかまでは知りませんでしたから、早速『アンのゆりかご』を読んでみました。
◇編集者小池先生
アンのゆりかご表紙 この伝記の中で小池先生は次のように登場してきます。昭和25年(1950)の「ある日、三笠書房の小池き孝という編集者が訪ねてきた。」 「三笠書房の創設者、竹内は戦後、会社を再興して昭和24年(1949)に新たに『風と共に去りぬ』を刊行した。南北戦争を背景に逞しく生きぬく主人公スカーレット・オハラの姿は、たちまち戦後の日本人の心をつかみ、アメリカ文化への憧憬も重なって大ベストセラーとなる。翻訳文学としては今までにないほど、多くの女性読者をつかんだ。」 「『竹内社長は、女性読者を視野に入れています。それで村岡先生のところに参ったわけです。〈風と共に去りぬ〉に続くような、何か新しい作品が刊行できればと思いまして・・・・・・。何かございませんか』/竹内を信奉する編集者、小池は言った。三笠書房は『新しさ』を求めていた。原作の出版から間もない新作を積極的に翻訳出版するのが、会社が今後めざしていく方向だった。/『アン・オブ・グリン・ゲイブルス』は決して新しくはない。原作が出版されたのは明治41年(1908)、花子が15歳の頃で、40年以上前の作品である。それに『風と共に去りぬ』のような強烈なドラマもない。孤児の少女アンの成長する過程に沿って、日常が綴られている平凡な物語だ。しかし、ありふれた日常を、輝きに変える言葉がちりばめられたこの小説は、花子に言わせると、『非凡に通じる、洗練された平凡』なのだが——。/『ありませんよ』/と、花子は素気なく答えた。/『そうですか』/小池はそう答えて、残念そうに帰った。/その後も小池はちょくちょく訪ねてきては、世間話をするようになった。」
 小池先生の名前「喜孝」が漢和辞典にもない「き孝」になっているのは、先生から村岡花子へあてられた直筆の葉書きによるものだったそうです。
◇『赤毛のアン』誕生の立役者
 昭和26年の冬、村岡花子は戦争中に密かに翻訳していた『アン・オブ・グリン・ゲイブルス』の訳稿を小池先生に託し、三笠書房での出版が決まりました。
 「訳稿は推敲を重ね、いよいよ出版の運びになると、問題になったのがタイトルだった。原題を直訳すると『緑の切妻屋根のアン』だが、切妻屋根といったところで、日本人には馴染みがない。花子は『夢見る少女』 『窓辺の少女』 『窓辺に倚る少女』など、いくつかのロマンティックなタイトルを考えていた。そして、さんざん話し合った挙句、花子が『窓辺に倚る少女』に決めて帰ってきた夜のことである。三笠書房の竹内社長から直々に電話がかかってきた。/『もしもし、あの、題名なんですが、小池が〈赤毛のアン〉はどうだろうと言うんですが、いかがでしょう』/『〈赤毛のアン〉?』/花子は気に入らなかった。あまりに直接的で『想像の余地』もない。ロマンティックなアンなら絶対に嫌がる。/『嫌です。〈赤毛のアン〉なんて絶対嫌です』/はっきり断り電話を切った。」
 その『赤毛のアン』を救ったのは、花子の娘、みどりでした。
 「『赤毛のアン』・・・・・・。素晴らしいわ!ダンゼン『赤毛のアン』になさいよ、お母様!『赤毛のアン』、いい題よ。『窓辺に倚る少女』なんておかしくって!」
 これを聞いた花子は、直に社長に電話して前言を撤回、『赤毛のアン』が題名となりました。
 「三笠書房は、昭和32年(1957)に『第五赤毛のアン(アンの幸福)』を出版した後、倒産。その後、再建したが、もうそこには日本の『赤毛のアン』誕生の立役者、小池の姿はなかった。」
 「彼は故郷、北海道に帰り、高校の英語教師となった。」の一節は今後、訂正、加筆されるとのことです。
 しかし、この本で先生の新たな一面が見えた気がしました。また、女性史としても大変興味深い本です。一読をお薦めします。(完)
《中庭だより》☆資料用の書架が一個入り、これを機会に室内の机の一部配置を変えました。
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