ヌプンケシ25号

2011年2月8日

北見市企画部(市史編さん担当) 〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-23-7111(代)


市史編さんニュース NO.25
タイトルヌプンケシ
平成14年6月1日発行

◎昭和17年関係書類が見つかりました。
 5月13日、広報担当職員からキャビネットを整理していたら、古い簿冊が出てきたとの話があり、翌日、広報の部屋を訪問して、その現物を見せて貰って、びっくり!
 何と、無いと思っていた昭和17年(1942)の『市制施行祝賀会関係書類』と『昭和17年事務報告』があるではありませんか。早速、市史編さん事務室に移管してもらいました。これらは、広報で記事をつくるために、原課もしくは市史編さん室から持ち出されて、そのまま広報のキャビネットで眠っていたもののようです。(捨てられなくて良かった) 
☆『市制施行祝賀会関係書類』 
 この簿冊はB5判で厚さが約1.5センチメートルあり、本体表紙には「永久保存/昭和十七年六月十日/市制施行祝賀会関係書類/北見市』と墨書されてあります。その表紙をめくると、最初にあるのが「市制施行祝賀会経費予算書」で、総予算額が 4,000円で内訳は飲食費に 1,230円50銭かけています。なお、祝賀行事としては演芸大会・相撲大会などに720円予算しています。広告宣伝費に490円、来賓の接待に当てたらしい「宴会費」が500円となっています。祝賀会の規模は、500有余名であったようです。
 次に説明なしの写真が2枚、野付牛町の半罫紙に貼ってありました。一枚は職員が地図を広げて、国民服の人物とお付きの人(?)に何かを説明しています。もう一つの写真は昔、中央通りに面画像写真してあったマルサン鶴屋という百貨店前(現在でいうと道銀横の専用駐車場付近)を、前記の2人を含むコートを着た7人の男達が役所の方に坂を上がってくる様子が写っています。この写真を撮った当時の人達には、これらの人物が特定できたのでしょうが、今では推理する しか仕方ありません。筆者は、この2枚の写真は、北海道参事会から担当者が「野付牛町市制施行実地調査」に派遣された時のもので、時期は昭和17年の4月下旬か5月上旬頃と推測していますが、本当はどうなんでしょうかね。
昭和17年6月10日、当日の日程は、「諸行事実施要綱」によると次のとおりです。

午前七時 開庁式(会議室)
 庁全員午前六時半迄登庁記念撮影 挙式後午前八時迄野付牛神社ニ到着スルモノトス二
午前八時 市制施行奉告祭(野付牛神社)
挙式後午前九時迄忠魂碑前ニ集合整列スルモノトス
午前九時 招魂祭並ニ開基祭(招魂祭ハ忠魂碑前 開基祭ハ開基記念碑前)
挙式後午前十一時迄西国民学校ニ集合スルモノトス
午前十一時 市制施行祝賀式並ニ祝賀会(西国民学校)画像鳥居
祝賀式ハ午後零時半迄終了引続キ祝賀会開催ノ予定

 「余興」として相撲・剣道・銃剣術・演芸が小公園で、映画が西国民学校で、どんな競技か見当もつきませんが、「商店訪問競技」が商店街で、大東亜戦写真展覧会が商工会議所で開催され、また各学校生徒参加で「旗行列」が実施されたことになっています。 
画像少年 これらを見て気づいたのは、早朝から行事を進行させ、割と簡素であるのと、さすが国家神道の時代で、式典のことごとくが神式で進行していることでした。
 書類として決算を含め、動員数など実施結果が残っていないのが残念です。 
☆『昭和17年事務報告』 
 この簿冊は昭和18年度の通常市会を開催するに当たり、「昭和十七年中ニ於ケル本市事務ノ概要ニ付 報告」したものです。北見市の起点となった年の事務報告ですから、今回の仮称『きたみ現代史』には欠かせない資料です。2月に図書館から返還された公文書類の中で『事務報告』は昭和31年分が不明なのを除き、昭和18年から昭和34年までありました。当然、昭和17年分もある筈だと思う一方で、廃棄された最悪も想定していましたから、この簿冊発見はとてもうれしいことでした。(昭和31年の『事務報告』も、どこかの部課の棚の中に死蔵されているのではないでしょうか。あったら、ぜひご連絡願います。)
 簿冊本体はB5判で、厚さが1.8センチメートルあり、紙質はいわゆるワラ半紙で140枚あり、それを二つ折りして、ページ数にすると約280ページになります。そこに基本的な全市行政の動きが載っていますので、情報としては大変大きな量があります。
 報告は、最初に「総敍」として初代市長高橋峯治氏が全市的な事業を報告し、あとは各係に分けて縷述しています。その「総敍」の冒頭は「惟フニ昭和十六年十二月八日 米英ニ対スル宣戦ノ大詔ヲ拝シテヨリ 支那事変ハ飛躍シテ大東亜戦争ニ発展シ 愈々決戦ニ次グ決戦ノ様相ヲ加ヘツツアルモ 開戦以来皇軍将兵勇戦奮闘ト一億国民ノ協心戮力トニ依ツテ 世界戦史上空前ノ一大戦果ヲ収メ 戦略上将又政略上絶対優位ノ態勢ヲ確保シ米英勢力ヲ一掃シテ 逞シキ建設ノ巨歩ヲ進メツツアルハ洵ニ祝福ニ堪ヘザル所ナリ」としています。日本軍は昭和17年6月5日、ミッドウェー海戦で大敗北を喫し、ガダルカナル島からも撤退せざるをえない状況になっていたのですが、そのことは報道統制で知らされず、一般国民はなお勝利を確信していたことが、この文からもわかります。
 市制施行とあわせて「多年ノ要望タリシ村社野付牛神社ハ 二月二十一日郷社ニ列シ 十月二十六日名称モ北見神社ト変更セラレタリ」と報告されています。ここでも天皇制を支える国家神道として、神社が重視されていたことを知ることができます。
 次に昭和17年4月に中学校及高等女学校学級が各1学級増加し、更に昭和18年には中学校5学級、高等女学校が4学級に増加することが報告されています。紙面の関係で割愛しますが、そのほか衆議院・市会選挙実施、農業作況などが記されています。この『事務報告』を複製しましたので、実際の内容を見たい方は、当室か図書館で閲覧して下さい。

 《中庭だより》 画像黄色と赤のお花が並んで
☆5月12日、前号で取り上げた「町内会廃止」の裏付けを取るために、市立図書館を介して道立図書館から相互貸借してもらった、昭和35年3月、自治大学校発行の『戦後自治史I(隣組及び町内会、部落会等の廃止)』を手に取って、感嘆していましました。
 筆者の知りたいことが、この冊子にほとんど網羅されていたからです。こうした先達の労作を見ると、あらためて市史編さんの意義と責任を考えざるをえませんでした。