ヌプンケシ33号

2011年2月8日

北見市企画部(市史編さん担当) 〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-25-1039


市史編さんニュース NO.33
タイトルヌプンケシ
平成14年10月1日発行

○旭川の神田館について
 過日、旭川の「神田館」について、旭川市の市史編集課さんに照会をしたところ、文化・生活・社会部門をご担当されている編集調査員の喜多健二氏より、詳しいご回答を頂きました。紙面の関係で恐縮ですが、要約してご紹介させていただきます。神田館写真
◇経営者は佐藤市太郎
<質 問> 貴市神田館の経営者は、どのような経歴の方なのでしょうか。
当市では、株式会社北見第一神田館となっていますが、経営の中心人物は不明です。昭和32年発行の『躍進北見の全貌』の中で、古老が「神田館という映画館があった。あれは旭川の神田床屋のオヤジが建てたんだ。」といっていますが、当市と関連があるのでしょうか。
<回 答> 経営者は佐藤市太郎で、「神田床」という理髪店チェーンは息子の佐藤勝太郎が経営し、市太郎は神田館経営と札幌の見番(芸妓置屋)の方に精力を注いでいたようです。佐藤市太郎については、『旭川市功労者伝』を同封します。
◇佐藤市太郎の経歴
 同封されていた『旭川市功労者伝』(昭和35年発行)によれば、佐藤市太郎は「慶応三年(1867)十二月、東京都本所で久太郎氏の長男としてうまれたが、祖先は三河の松平家より出で、いわゆ佐藤市太郎写真る三河武士の血を受け、維新当時は徳川旗下八百石をはんでいた。明治二十五年(1892)、大志を抱いて来道して札幌におり、高等理髪店として神田館を開いて人気を集める。まもなく旭川市二条通七丁目に支店を持ち、その後居を旭川に移し、北海道理髪組合連合会会長に推され、その発達改善に力をつくす。
そのころ札幌狸小路にあった共楽座を経営したが失敗。たまたま上京中、浅草の映画常設館を見てヒントを得、旭川の裕徳座を改造して神田館(後の第二神田館)と改称。四十年映画常設館として開業する。その経営に人知れぬ苦心もあったが、活動写真の常設館ができたというので、物珍しさの人気も呼び、一等二十銭、二等八銭の観覧料は、当時としては安いものではなく、映画もまた日活の前身の三福商会の製作で、極めて貧弱なものであったが、同じ映画を二度も見るという熱心家もあり、予想以上の成績をあげる。機を見るに敏な氏は、いよいよこれを全道に拡張して、名実共に全道興行界に覇をとなえたのである。すなわち旭川に第一・第二・第三神田館、四十三年には札幌狸小路に第二神田館、つづいてエンゼル館、四十四年小樽妙見町に小樽神田館、室蘭に室蘭劇場、帯広に帯広神田館、釧路に釧路神田館、野付牛(今の北見市)に北見神田館、ほかに特約館として根室の朝日座、夕張の登座をおき、「神田館の大将」の名が全道にとどろく。/この外、札幌に睦見館も経営していたので、年々の収益は三十万円を越え、その年数回の上京には、家の子郎党を引きつれての大名行列、その豪勢ぶりにはさすがの江戸ッ児も鼻をあかしたという。」
 社会事業・慈善事業にも熱心で、蒸気ポンプを消防組に寄付したり、大火に被災した困窮者にもち米数十石を贈ったり、軍隊への慰問も実施しています。また、市議会議員も大正11年から昭和9年まで務めました。前ページの肖像写真を見ると、落語に出てくるような宵越しの金は持たない、さっぱりした気性の江戸っ子という印象です。
第一神田館全焼写真「ただし、大正十二年関東大震災を境としておしよせた大不況は急激に客足をにぶらせた矢先、旭川の第三・第一神田館、札幌エンゼル館の焼失にあって事業は縮小され、旭川の第二神田館を残して他全部を整理するに至ったが、本道興行界に残した功績は大きい。
昭和十二年、第二神田館もついに本間誠一氏の経営に移る。」とあります。
 結局、経営者佐藤市太郎は、昭和9年(1934)11月、横浜の三男のところで亡くなったそうです。
明治末期から大正時代までが、佐藤市太郎の絶頂期であったわけで、旧市街の人々が神田館を大正10年(1921)に野付牛に誘致、開館したのも、その実力に相当期待していたからでしょう。
しかし、大正9年に第三神田館が焼失、そこへ大正12年関東大震災以降の不況、大正14年の第一神田館の焼失と不運が続き、経営縮小の中で、北見の神田館も映画配給が行き詰まり、命運つきて閉館、身売りしたと見ることができます。
 余談ですが、昔の映画フィルムは爆発的に燃え、映画館がよく火事になりました。北見でも昭和8年、友楽座から出火、2条・3条西3丁目の街区の6割を焼失しました。
 喜多氏から聞いたお話では、この佐藤市太郎の子孫は旭川にはいないそうです。神田館の盛衰に、人生の変転を見た思いがいたしました。

 《中庭だより》 
☆神田館の調査は、今回で一段落させることにしました。映画館一つとっても、こんなに分からないことばかりで困っております。ご協力頂いた皆様方に感謝いたします。
☆9月10日、清水町の齋藤光雄様から、お手紙を頂きました。お父様が「春治」、お母様が「イシ」というお名前で、光雄様は五男だそうです。昭和13年発行の『野付牛商工名鑑』にある「春吉」は間違いで、「春治」が正しいそうです。また、曙旅館は日露戦争ぐらいの開業で、昭和19年9月に止め、その後、松下木材の寮になったそうです。これで、また一つ市史の空白が埋まりました。今後とも、ご教示ください。
☆あわせて、齋藤様から大正10年発行『南米日本人写真帖』と、貴重な写真「駅前交番落成式」、「大日本国防婦人会」の襷をかけた斑単位の記念写真、昭和12年の「高臺台寺授戒會記念」写真をご寄贈頂きました。これでまた、市民の財産が増えたと喜んでおります。
どうもありがとうございました。