ヌプンケシ34号

2011年2月8日

北見市企画部(市史編さん担当) 〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-25-1039


市史編さんニュース NO.34
タイトルヌプンケシ
平成14年10月15日発行

◎いも版画家、香川軍男さんのこと
 9月18日、我々市職員の大先輩で、知る人ぞ知る著名な薯版画家、香川軍男(ときお)さんが87歳でお亡くなりになりました。昨年11月10日~12月9日、北網圏北見文化センターで「薯上遊神(しょじょうゆうしん) 香川軍男展」が開催され、その作品の一部が紹介されたとはいえ、香川さんは滅多に人前に出る方ではありませんでしたので、ご存じない方もいるかと思います。
 そこで、今号は香川軍男さんについて、レポートしてみたいと思います。
◇香川さんの生年月日など
 香川さんは、前年に第1次世界大戦が勃発し、日本が大戦景気で沸いていた大正4年(1915)7月5日、十勝国大津村(現豊頃町)に、秋田出身の父・福松、母・キミの長男として生まれました。(軍男という勇ましい名前も、大戦に因んでつけられたのかも知れません。)8歳年下の妹が、福村香川さん写真書店社長下斗米ミチさんです。福村書店の包装紙やカレンダーに香川さんの版画がアレンジされているのも、そうした関係からです。
 鉄道保線区長であった父親の転勤で道内を転々とし、訓子府にいた昭和4年(1931)に大正デモクラーの余韻が残る庁立野付牛中学校(現北見北斗高校)に入学、ここで本格的な絵画・版画にふれ、美術部に入部します。また、学友に小説家志望の石田忠明がおりました。
下斗米ミチさんの自伝『母さんの風呂敷き包み』によれば、その多感な時期に父親が中気のような病気で鉄道を退職し、わずかな恩給だけが頼りとなり、昭和8年に闘病のため北見に引っ越してきました。香川さん自身も体育授業中の怪我が原因で足を手術しましたが、手遅れで徴兵対象とならないほどの障害が残りました。父親に代わって一家の大黒柱になることを母親から期待されていた香川さんには、このことがどれほど心を苦しめたことでしょうか。しかも、不況でろくな就職口のない時代でした。
◇天才倶楽部のこと
 香川さんと石田忠明等の交友関係を、菅原政雄氏は『北見の文学ものがたり』の中で次のように記述しています。「美術志望の香川軍男と文学志望の石田忠明とは、野付牛中学校同期(八期、昭和9年卒)で、早くから互いの才能を認め合い親しくしておりました。石田はよく香川に向かって、『おれは文学を背負って立つ。お前は絵に没頭しろ』と昂然と言い放っておりました。何年にもなる不況はなお続いていて、大学は出たけれど、という言葉がはやってすでに久しいのですが、まだまだ大変な就職難の時代でした。中学校を卒業した香川なども、裁判所や郵便局を受けましたが、いずれも採用されず、しばらく浪人していたくらいでした。」
 「それでも石田は野付牛役場に臨時雇として就職することができました。ところが石田は、時間かまわず小説を読みふけり、詩作に没頭するのでしたから、しょっちゅう遅刻を繰り返して、ついに役場をお払いばことなってしまいます。」「役場を解雇された石田は、その後作家たらんと志して東京に出ました。そして、東京の大学に在学中の先輩加藤芳明と交際を深めておりました。が、やがて胸を患い、転地療養のあと野付牛へ帰ってくると、加藤も帰北して明照寺の住職になっておりました。」
 「一方香川は、(昭和12年─引用者)石田と入れ替わるように役場の臨時雇写図生として土木課に入り、理解ある上司に恵まれて、仕事のかたわら絵を描く機会すら与えられておりました。そうした中で、たまたま先輩小崎正美の紹介で景川弘道(大野黙然人)を知ります。景川は『短歌研究』で齋藤茂吉に推奨され、意気の上がっていた頃で、又、絵も描き始めておりました。/香川は更に野付牛郵便局通信課の中島末治を知り、中島を通じて長嶺勝、堀川時義らを知ります。この人々はいずれも詩を書いておりました。こうした石田、香川の交友関係から生まれた集まりが、加藤の明照寺に場所を得て定例化し、やがて『天才倶楽部』と称することになります。昭和14(1939)年頃のことです。」世の中が戦争に向かってドンドン狂っていく中で、「精神の自由」を求めて集まった青年たちは、月1回、思い思いのテーマで学習をしたり、宴会を開いたりしておりました。また手作り回覧雑誌、『宴会』を発行、昭和20年の暮れまでに18号を数え、表紙の多くは香川さんが描きました。これら青年たちが、戦後の北見文化をリードすることになりますが、詳しくは『北見市史』下巻と前掲書をご覧下さい。(なお、貴重な『宴会』の現物は、平成13年1月景川弘道氏を介して市に寄贈され、図書館に保管されています。)
☆油絵から版画へ
 
「香川軍男展」カタログの巻末年譜によると、香川さんは昭和15年(1940)、鷲見憲治、菅原隆治、原義行と4人で「凍影社」を結成し、厳しい戦時下、展覧会を随時開催しています。香川さんは、戦前水彩画から油絵へと研鑽を深め、技量を高めながら、版画家・川上澄生の作品に刺激され、戦後ジャガイモを素材に独自の「いも版画」の世界を創造され、川上澄生をして「海内無双の薯版画家と私は香川さんを呼ぶ。」と言わしめたのです。その後のご活躍は、この紙面には書ききれませんので、割愛させて頂きます。なお、香川さんは昭和46年(1971)には北見文連の文化奨励賞と北見市文化功労賞、昭和48年第25回北海道文化奨励賞、昭和60年第39回北海道新聞文化賞の社会文化賞を、受賞されています。
 香川さんの作品を身近に見たいのであれば、複製『いも版ひかえ』全31集が市立図書館にありますので、機会がありましたら閲覧して見てください。また、絵葉書が福村書店から販売されています。現在、北海道新聞社で作品集を出版予定とか。また北見叢書が渡辺誠弥氏の私家本『薯上遊神 香川軍男 聞書薯版憶書』を出版予定と聞いております。香川さんの作品が、これからも広く市民のものとなり、愛されることを期待しております。
 香川さんは市役所では市民課を中心に、昭和37年から昭和42年まで図書館、昭和46年から退職される昭和49年まで市史編さん室に、それぞれ勤務されていました。筆者は直接、お話をしたことはありませんが、私自身の経歴と重ねて何となく親近感を覚えます。

 《中庭だより》 
☆先日、「菊まつり」の始まりなど、経過が知りたいというお客様がおいでになりましたが、前回の『北見市史』にも記述はなく、手がかりなく困ってしまいました。こんなところでも、改訂の必要性を感じます。その点では、今月号の広報きたみの記事はよく調べて、コンパクトにまとめられており、今後参考にしたいと思っております。
☆今回のレポートを書いていて、「凍影社」の結成が『北見市史』下巻では昭和14年になっているのに、香川軍男展のカタログ年譜では昭和15年になっていることに気づきました。そこで北網圏北見文化センターの学芸員に電話で確認したところ、(故)
松田陽一郎氏が作成した資料によると、「凍影社の第1回の展覧会のカタログには年が入っていないが、開催曜日で見ると昭和15年が妥当なことと、鷲見先生の作品からも15年が適当」と判断したとのことで、年譜はこれに準拠したとの回答でした。
この点でも市史として改めて確認する必要性を感じました。
☆香川軍男さんが写ったお写真は少なく、今号の肖像写真も人を介して奥様香川央様からお借りした物です。貴重なお写真をお貸し頂き、誠にありがとうございました。