ヌプンケシ40号

2011年2月8日

北見市企画部(市史編さん担当) 〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-25-1039


市史編さんニュース NO.40
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平成15年1月15日発行

◎北見の芝居ことはじめ(3)
 「成人の日」も過ぎ、正月気分も酒の気も抜けて、仕事に励まれていることと思います。
 今回は戦後になってからの芝居の話をしましょう。
◇戦後と芝居
 戦前では芝居といえども警察が公演前に台本を検閲し、反政府的な表現は削除されていました。しかも、舞台には警察官が臨検し、不穏当な表現があれば、ただちに芝居を中止させることができたのです。特に新劇は思想的に左翼とみなされ弾圧の対象でした。
 戦後は占領軍の検閲・干渉はあったものの、戦前に比べ芝居が自由にで
40-shibaiきるようになりました。しかも文化国家建設の掛け声の下、文化的な活動が奨励されました。
 庶民は娯楽に飢えていましたから、どんな芝居でも楽しみにされました。
各部落の青年団は、演芸会でいわゆる「ヤクザ芝居」などと言われるような「股旅もの」をやったりして、観客から喝采を受けていました。そして元市議の辻芳夫さんから伺ったお話では、結構うまいと評判の芝居は一座を組んで地方を巡業することもあったそうです。
 当時、都会が食糧難のために、旅公演をする劇団もありました。
◇北見新劇研究会
 当市でも、昭和21年(1946)12月に北見新劇研究会が誕生します。会長の関市雄さんは看板製作の都工芸社の店主でした。幹事長が後にNHKプロデューサーになる福島賢一さんで、山本文雄、松井恒幸、山田精一、菅原隆治さんなどが中心でした。旗揚げ公演は、昭和22年(1947)5月、真船豊作「裸の街」と「ドン・ピエトロ・カルウソウ」で商工会議所ホールで開催されたそうです。舞台美術が都工芸社の看板職人であった金田明夫さんというのも面白いです。この団体は昭和24年(1949)、市労協と組んで当時の左翼的な新協劇団(「破戒」)、人形劇団プーク(「ファースト博士」)、前進座(「真夏の世の夢」)を呼んだそうですが、その赤字を背負って解散したとのことです。
◇北見演劇連盟
 それと大きな職場や会社で劇団を結成する「職場演劇」もさかんになり、共笑劇団(国鉄)、白樺座(営林区)、竜星座(綜合木材)、四季の座(八紘有限会社)などがありました。
「これらに北見銀嶺楽団、北見舞踊同志会なども加わって、昭和22年(1947)1月30日には、松竹と関係のあった奥伊知松を理事長として北見演劇連盟が結成されます。同連盟は、この年6月14・15日と、鉄道集会所でうたや軽演劇などの第1回演劇祭を催しました。」と、菅原政雄著『北見の文学ものがたり』にあります。戦後間もなく、北見でもリアリズムを志向する新劇と、戦前の浅草に代表される軽い娯楽と風刺に富んだ軽演劇と二つの流れがあったことがよみとれます。
 連盟理事長になった「奥伊知松」について各種名士録を開いて見たのですが、この氏名で該当する人物はいませんでした。ただし、昭和31年(1956)10月に家庭北見新聞社から発行された『北見市名士録』の中に「奥 巖松(おく いわまつ)」という名前があり、その経歴を見ると「明治38年(1905)1月11日旭川市にて宗吉の二男として生まれ、大正14年(1925)3月京都法律専門学院卒、自昭和3年6月至昭和17年3月松竹KK入社旭川駐在支配人、昭和17年5月北海道内外映画配給会社社長、昭和23年北見市文化連盟理事長、自昭和24年4月至昭和29年3月北見市立東校PTA常任教育部員、教育部長、昭和29年北見市立東保育所副会長、昭和27年より千代田生命保険相互会社北見支部長」とありますから「伊知松」ではなくて、「巖松」が正しいと思われます。
 これは余談ですが、この奥巖松氏をもう少し調査しようと、伊藤調査員が切り抜いた『北見今昔』(北見新聞昭和36年10月1日)の記事を見たところ、前に取り上げた神田館を大正末期から約3年間、「ひと月四十五円で佐藤市太郎さんから借りうけて、その経営に当たった」とあるではありませんか。つまり、学校を20歳で卒業してから松竹に入社するまで、「園江龍好」という弁士も兼ねて、神田館の経営にあたっていたということです。思わぬところで神田館の様子がわかってきました。アンテナは広げて置くものですね。しかし、旭川の親が資産家だったのでしょうか、20歳くらいで映画館経営とは恐れ入りました。
◇北見放送劇団
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 この他に、北見の芝居に多くの人材を輩出して大きな足跡をのこした団体にNHK北見放送劇団があります。NHK北見放送局は昭和21年(1946)8月10日開局し、放送劇団研究生を募集します。
 『北見市史』下巻に「開局の翌一九四七年、NHK北見放送劇団の前身北見朗読研究会が発足する。放送劇団となったのは一九四九年であった。研究生は第一期から第三期に及んだが、朗研のころの主なメンバーは中島孝四郎、山崎美和、青山幸雄など。主な劇団員には青山幸雄、米田(君野)歩、上田寿美子、大淵辰朗、丸山正、牧田正嗣、木村宮治、扇谷治男、山田瑛子、川島カツエ、井利信子、柿丸章、瀬下靖子、下村義雄、棟方嶺子、新井充、扇谷国男、本賀夫、田村昌国、寺島順子、三宅令子、伊藤慧子、寺沢亜紀子、川又操などがいた。」とありますが、知っている人がいましたか。結構、現役で頑張っている方のお名前もあるでしょう。
 ところで、ここに開基五十年を記念して昭和22年10月から11月にかけて開催された北見文化祭
40-bunkasaiの「目録」の複製がありますが、そこに記載された文化祭加盟団体に先に紹介した2団体はあるのですが、「北見朗読研究会」の名は見えません。かわりに「北見放送劇研究会」という団体名があるのです。「朗読」というのはアナウンサーの基本的な仕事であるのに対して、「放送劇」となれば台本、複数の役者、演出や効果などを要する総合的な芸術になるわけで、確証はありませんが北見放送劇団の前身は「北見放送劇研究会」が正しいように筆者には思えます。これも別な資料類を見つけて検討、整理しなくてはと思っています。
 この頃のラジオは日常の娯楽に欠かせないばかりか、NHK北見局自体も放送合唱団や児童放送劇団を組織するなど、地域文化の向上に大変寄与する役割を果たしていました。ローカルでどんどん番組も制作していましたから、脚本も必要となり北見ゆかりの児童文学者安藤美紀夫、現名寄短大学長の松岡義和さんたちも書いていました。
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 しかし、テレビが娯楽の主流になるにつれ、ラジオ番組が地方では制作されなくなり、昭和47年(1972)、北見放送劇団、放送合唱団等は解散しました。

 《中庭だより》 
☆12月、伊藤調査員が私用で訪問した際に、市役所OBのお宅から「戦時国債」「大政翼賛会」「航空兵募集」等のポスターが発見されました。奥様の話では「なくなった主人が戦中、横山大観、藤田嗣治など一流画家が描いたポスターを廃棄せずに自宅に持ち帰ってきたものだ」そうです。ポスターは26タイトル27枚あり、発行年が不明なものもありますが、ご主人は昭和12年役場に奉職されていますから、それ以降のものと思われます。早速現物をお借りして写真に複製し、北網圏北見文化センター学芸員にも見てもらいました。