ヌプンケシ47号

2011年2月8日

北見市企画部(市史編さん担当) 〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-25-1039

市史編さんニュース NO.47
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平成15年5月1日発行

◎秩父事件と井上伝蔵(2) 47-kodomo
 前号では、自由民権運動と秩父事件について概略をリポートしてみました。
 今号は井上伝蔵について、少し書いてみたいと思います。
◇井上伝蔵とは
 井上伝蔵とはどんな経歴の持ち主であったかを、出生地の吉田町、井上耕地の屋敷跡に立っている「来歴書」で見てみましょう。
 「井上伝蔵は、安政元年(1854)六月二十六日、井上類作の二男として生まれた。幼名は治作といったが、後に商家丸井のあとを継ぎ、伝蔵を襲名した。井上部落の惣代役的立場の人物として祭礼等をとりしきり、農民の頼母子講の世話等やいた。/明治十年代には、下吉田村戸長役場筆生、秩父商業組合行事等も勤めている。一方、伝蔵は商用で上京する中で自由民権思想に共感し、イギリスのスチーベンの自由平等論等を読んだ。明治16年12月より始められた農民の負債据置年賦償還運動にも積極的に協力し、自由党に入党。秩父事件では会計長を勤めたが、敗北後、欠席裁判で死刑の判決を受けた。/北海道に渡り、伊藤房次郎と称し、高浜ミキと結婚、二男三女をもうけた。各地を転々としたが北見国野付牛で大正七年(1918)六月二十三日、六十五才の数奇な生涯を閉じた。伝蔵は異郷にあっても柳蛙と号して俳句を作った。彼の句には、秋を歌ったものが多く、読む人の心をうつ。

 想いだすことみな悲し秋の暮
 秋どこへ行くぞ錦をぬぎ捨てて」

井上伝蔵写真井上伝蔵は「来歴書」に記されているとおり、下吉田村(現・吉田町)の豪商で、「丸井のだんな」と呼ばれ地域の信頼も厚く、かれの自由党入党、困民党加盟は村民に大きな影響を与えたようです。(なお余談ですが、上記「来歴書」に生年の元号として記されている安政は11月27日に改元されていますので、その前の嘉永七年とするのが正確です。)
 伝蔵の容貌は左の写真のとおり、手配方依頼書で「一 顔長ク白キ方、一 男振ハ美ナル方、一 丈高キ方、一 歯並揃ヒタル方、一 鼻高キ方」と書かれたほどの、いわゆる役者顔でした。

◇井上伝蔵の足跡は?
 伝蔵は潜伏した経路にどのような足跡を印したのでしょうか。
 伝蔵は本部解体直後、武甲山に隠れた後、実家に近い下吉田村関耕地にいた斎藤新左衛門を頼り、土蔵に約2年間匿われていました。井上家では父親である類作夫婦、実姉であるおせき夫婦の4人だけがこの秘密を守り、潜伏生活の面倒を見ていたそうです。その間、伝蔵は蔵の階段を上り下りして足腰を鍛え、六法全書を読破したと伝えられています。
 明治19年(1886)秋、伝蔵は下吉田村から姿を消し、越後能登方面に向かったものの官憲の追及に阻まれ、翌年秋に北海道に渡り、苫小牧に一時草鞋を脱いだ後、軽川(現・札幌市手稲区)の侠客、村上藤吉の下に身を寄せてから、明治22年頃にサケ景気と石狩川水運の拠点として景気の良かった、現在の石狩市に姿をあらわしたと考えられています。
 推測ではなく、確実に足跡がたどれるのは、明治25年に伊藤房次郎の名で石狩郡親船町(現・石狩市)に寄留し、開拓の為に原野借下げをうけたことを示す「樽川村地内閣令十六号貸下地調」という土地台帳の記録以降からです。この頃に、伝蔵は江差町出身である高浜忠七の長女ミキ(16歳)と入籍せずに結婚して、土地の名義を忠七に譲り、代書の仕事をしましたが、法律の改正で戸籍の提出など身分証明が必要となり代書業を止めざるを得なくなり、妻がはじめた文房具・小間物商を本業としました。石狩には幕末から盛んな俳句結社「尚古社」があり、下吉田村で俳句を嗜んでいた伝蔵は俳号「柳蛙」(りゅうあ)で参加し多数の俳句を残しています。明治27年(1894)5月生れの長男・洋(ひろうみ)をはじめ二男三女に恵まれ、養子縁組の証人や神社の祭典委員、土地の評価委員を務めるなど、地域の名士として活躍し、潜伏の暗いイメージとは程遠い、落ち着いた普通の生活をしていたようです。
 しかし、鮭の不漁による不景気と、一説では明治43年(1910)に起きた大逆事件(明治天皇暗殺の容疑で幸徳秋水はじめ多数の社会主義者・無政府主義者が逮捕、処刑された事件)もあってか、明治44年春、20年以上暮らしていた石狩を去って札幌に移住します。札幌では下宿屋を営みますが、下宿人の学生が窃盗で警察に捕まり、家宅捜索をされる事件もあったためか、そこも明治45年には引き払い、ハッカ景気と鉄道開通で沸く野付牛にやってきました。そして大正7年(1918)6月23日に、伝蔵は家族
47-hanaに見守られながら息を引き取ります。その死の前に、自分は国事犯で死刑を宣告された井上伝蔵であることを洋に打ち明け、秩父事件の顛末を話しました。その35年の逃亡生活が死後、新聞発表され、大ニュースになったのです。
◇井上伝蔵研究について
 さて、この井上伝蔵の足跡をたどる研究の先鞭をつけたのが、昭和49年(1974)8月に現代史出版会から出版された『秩父颪』(ちちぶおろし)で、当時当市在住の小池喜孝先生が書かれました。小池先生は北見北斗高校、美幌高校、北見工業高校で教鞭を取っておられましたから、ご存じの方もいると思います。また、秩父事件研究第一人者井上幸治教授の指導を受けながら、小池先生と協力して石狩時代の井上伝蔵を洗い出し、俳句結社「尚古社」の俳句に着目したのは森山軍治郎氏で、昭和49年1月に『民衆精神史の群像』(北大刊行会)として、その成果を発表しました。この両書に刺激されて、次々に研究が発表され、石狩では「尚古社」の膨大な俳句の発掘、整理が「石狩市郷土研究会」等によって現在もなされ、伝蔵の俳句と共に生活ぶりが次第に明らかにされました。また、昭和52年には、伝蔵の三女である佐藤せつさんの聞書きを掲載した『秩父困民党に生きた人びと』(現代史出版会)が出版されました。
 平成12年9月、俳人である中嶋幸三氏が『井上伝蔵 秩父事件と俳句』を邑書林から発行されました。この本は今までの研究を踏まえつつ、特に石狩現地での研究成果と佐藤せつさんの証言を井上伝蔵 秩父事件と俳句表紙中核に据えて、これまでの諸説を批判的に整理し、今まで流布されていた悲壮な伝蔵像をくつがえし、生活感のある行動的な伝蔵の姿を明かにした点で画期的でした。(映画『草の乱』のシナリオにある野付牛のシーンは、伝蔵の娘、佐藤せつさんの証言を基にしています。)
 特筆すべきは、秩父時代の妻(伝蔵潜伏後、井上家から離縁)「古ま」との間に一女「布伝」(秩父事件当時、生後5ヵ月)がおり、明治41年に布伝(ふで)に結婚話が持ち上がった時に、東京に住んでいた古まの所に伝蔵が訪ねてきたという話を、布伝の四女、小池もとさんの証言として紹介している点でしょう。符合するように、佐藤せつさんの証言にも伝蔵は家族には何も言わず半月ほど旅行にでることが度々あったとあります。想像力を刺激されます。

 次回は、佐藤せつさんが証言している野付牛時代の様子について紹介して見たいと思います。

 《中庭だより》 
☆ご紹介がおくれましたが、本年度より調査・執筆作業が本格化するため、この4月から嘱託調査員が2名になり、新たに津幡克治さんが配置されましたのでよろしくお願いします。
☆佐藤せつさんの証言で、伊藤房次郎(井上伝蔵)一家が野付牛にきて最初に身を寄せた島田という人物が特定できました。それも次回お知らせします。調査すると色々でてきます。