ヌプンケシ50号

2011年2月8日

北見市企画部(市史編さん担当) 〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-25-1039


市史編さんニュース NO.50
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平成15年6月15日発行

◎秩父事件と井上伝蔵(5)
◇高浜道具屋はどこか?
 伝蔵の末娘、佐藤せつさんの証言によれば、古道具屋は大正3年(1914)5月の大火以後に、焼け出された道具を集めて、母親ミキが店舗を借りて始めたようです。
伝蔵の過去帖の写真 左の写真のとおり、聖徳寺にある大正7年に書かれた伝蔵の過去帳では住所として「一条通り高浜道具屋」が記載されています。一条通りといっても、東6丁目から西7丁目まであるわけで、範囲が広すぎて特定できません。
 手元にある職業案内を書いた、一番古い資料は大正12年(1923)発行の『野付牛総覧』で、その時点での古物商に高浜もしくは井上という店名はなく、「一条通西一丁目 上野商店」「一条通西四丁目 黒澤商店」の2軒がありました。また、昭和4年7月発行の『野付牛明細図』には、一条西五丁目の角(六丁目側)にマル長という屋号の古物店が見られます。

 もっとも大正13年頃には、ミキは結婚した佐藤せつさん夫婦とともに野付牛を離れ、釧路に転出しているようですから、その頃には古物商を廃業したのは確実で、他人に店を譲ったとも考えられますが、これも新資料が出てこない限り、古道具屋の場所は確定できません。
◇伝蔵の野付牛での暮らしは?
 では、伝蔵は野付牛ではどのような暮らしをしていたのでしょうか。これも佐藤せつさんの聞き書きから拾ってみましょう。
 「父には不思議なくせがございました。北見でもそうでございましたが、北見につくと、すぐにどこかへ出かけるんでございますね。あの辺の地理をしらべるためでしょうか。半月ぐらい必ず旅行を致します。」石狩時代にも同じことがあったようで、誰かと連絡をとるための行動だったのか、それともせつさんが言うように「自分のもっと安全な場所、安住する場所」を探していたのか、色々と想像させられます。
 「それから、もう一つ、これは人さまから大変よろこばれたくせがございました。火事の時、我が危険も考えずにその家にとびこんでいって、その家の大切なものを出してあげるんですね。よく感謝されたものでございます。」大正3年の大火事の時にも大活躍したのでしょうか。伝蔵の勇敢で行動的な姿が感じられます。
 「いつもきちんと静座しているんでございますが、それが自然で、堅苦しくないんです。優しいよく物を知ってる父でございました。/欠点と言いますと、イビキくらいのもんじゃございませんか、寝言に長唄をひとくさりやる人でしたから・・・。/そんな静かな父が、選挙の時だけはちがう人間になってしまうんですね。あの頃はまだ、金持ちしか選挙権がありませんでしたからひどいものでした。私は子ども心におぼえていますけれど、(石狩の—引用者)綿屋のホテイさんと申しまして、そんな方などが立候補していたような時代でしたね、お金もうけが上手なだけの教育も何もない方がね。だからヤジるんでございましょうね。それから議論好きだったようでございますね。/野付牛では仏教とキリスト教との間に大論争がありまして、父はそれを欠かさず聞きに行きました。町で(お坊さんとキリスト教徒の)論争がございまして。それを父は真面目な顔をしていつまでもいつまでも聞いているんでございますよ。」
 伝蔵が議論好きで政治的関心が高いのは理解できますが、演説会で公然とヤジを飛ばしていたなんて、じっと息をひそめて暮らすような潜伏者イメージとは全然違いますね。
◇野付牛での仏教とキリスト教の論争
 さて、そこに書いてある「仏教とキリスト教の大論争」についてですが、事務室にある宗教関係の公式資料には、それらしい記録、記述は一切見つかりませんでした。
 ただし、それに該当するであろう証言を、昭和49年(1974)発行の『北見の女』創刊号で新井三之助さん(1883〜1978)から聞き取りをした「廃娼運動当時の野付牛の様子をお聞きして」の中に見つけました。新井さんは、その当時を知る生き字引的存在でした。廃娼運動当時のキリスト教の伝道の様子を、次のように答えています。
 「ピアソン氏は、主に家庭訪問をやっていました。別の宗派で、ホーリネス教会の池田牧師はちょうちんをつけて『信ずる者は誰もた〜だ信ぜよ〜。み〜な救われん。』と歌をうたって、太鼓をたたいてみんなが集って来ると、説教していました。この説教が始まると、高台寺の住職が来て、石を投げ、罵倒して邪魔をするので、当時高台寺の檀家総代だった私が、『何が為に反対するか。人を良い方に導くのが宗教ではないか。みな手をつないで良い道に励んで行くのが本当ではないか。』と注意したのですが、けんか好きの住職は聞き入れないので、これを契機に檀家総代をやめてしまいました。大正6年のことです。それ以来、キリスト教信者になりました。」
 夕暮れ時、町の辻で賛美歌と太鼓で人を集めて、ホーリネス教会の牧師が辻説法をしているところに、高台寺の住職がやってきて一悶着あって口論になり、その様子を傍らでじっと見聞している着流し姿の井上伝蔵が想像されます。
 大正に入って、野付牛ではキリスト教の伝道がさかんになっていました。『北見教会史年表』によると、大正3年(1914)には日本キリスト教会のピアソン夫妻が旭川から野付牛に転住してきましたし、大正5年には新井さんの証言にあるホーリネス教会野付牛教会が設立されています。檀家の少ない開拓期に、入植者と共に草分けの辛酸をなめてきた地元のお寺としては、後からノコノコ乗り込んできて活発に布教活動するキリスト教会に無関心ではいられず、つい論争が繰り返されたということでしょう。
◇趣味の俳句を介して
 石狩での20数年間、伝蔵は柳蛙(りゅうあ)という俳号をもって、地元の俳句結社「尚古社」に参加して、地元に溶け込んでいたことは中嶋幸三著『井上伝蔵 秩父事件と俳句』で詳しく述べられています。伝蔵はその俳句仲間であった土方(ひじかた)常吉と野付牛で再会し、家族ぐるみで親しく付き合いました。その辺りを『秩父困民党に生きた人々』にある、佐藤せつさんの証言で見てみましょう。
 「今度また想い出した人がございます。いつも父と一緒でございました。土方さんという北見の時計屋さんでございましたの、土方常吉さんと申しましてね、その方が北見に(私共が)参りましたら時計屋さんを開いてまして、(その方は)石狩でもご一緒でした。なんか盛大な演説会でヤジるのが二人共好きで、土方さんと父だけで警察に二、三度引っぱられたことがあったんですよ。土方さんは昔から時計の修理人じゃなかったんでしょうが、(土方さんが)御器用のゆえに、ああいう未開のところですから修繕なんかしているうちに、北見ではささやかな店を持つようになられたのでしょう。(私の)母なんかは、土方さんの奥さんになった方をよく存じ上げておりました。その方と偶然に北見で会ったものですからおどろきました。その家のサチコさんという方が私と同級生でございました。そんなんでいっそう親しくしておりまして、それが私の母と土方さんの奥さんが俳句の友で、石狩ではそれほどのあれ(友人関係)ではなかったんですが、北見へまいりましてからあちらがちゃんとお店をもちましてね。お子さんが四人できまして、そんなんでちょっと旧交を温めましてね。そしてその方は、(私の)父が亡くなりました時にね、葬儀委員長になって下さいました。岡部さん(釧路新聞記者)も良くして下さいましたが、葬儀委員長は土方さんでございました。」
 この伝蔵の葬儀委員長までした土方常吉(俳号抱月)については、昭和32年刊行『北見市史』の「郷土俳壇の足跡」の中で、「明治43年頃旧市街仁頃通りに住んでいた八木沢与市、丸玉の鈴木浩気らが主となって句会を持っていたが、梧桐会はこれらの人たちによって作られたようだ。この梧桐会の中には時計屋で土方抱月という俳人がいて、今の名塩呑空はこの人から俳句を教わったのであった。」と書かれています。
 このように、土方は野付牛の俳人の中で指導的な立場にあったようですから、当然、伝蔵を梧桐会の面々に引き合わせていた可能性は高いと思われます。例えば、梧桐会に参加していた生月一喬は、伝蔵の三男郁雄と同級生であった息子の喬さんに、伊藤房次郎(伝蔵)について「貧乏しているが、大変りっぱな人だ」と言っていたそうです。であれば、藤井今五郎翁が「家の中で、何か書き物などしていた」という証言も、俳句をつくっていたことだったのかもしれません。
 しかし、この梧桐会の記録も句集も何も実際に資料として筆者は見たことがありませんので、この句会に伝蔵が顔を出していたかは不明です。もし、句集が見つかり、そこに「柳蛙」の作品があれば大発見なのですが・・・・。
◇土方抱月について
 土方という人物についてもっと知りたいのですが、記した資料は前述の『北見市史』しかなく、それ以外には見当たりませんでした。実業家で、俳句では土方の弟子になるらしい名塩良造(名塩呑空)翁の関係資料からも彼の名前は出てきません。大正12年の『野付牛総覧』にある時計屋は、村瀬時計店と小畑時計店の2軒で、土方という名称はありませんでした。
画像北見國野付牛要覧 もっと古い資料がないか、北網圏北見文化センターの所蔵目録を調査しましたら、大正6年発行の『北見國 野付牛要覧』があることがわかりました。早速、文化センターへ連絡して特別に貸出してもらいましたが、これがまったくのボロボロで、表紙は破れ、本の後ろが千切れている、手を触れるのも恐ろしい本でしたが、貴重な一冊なので複製することにしました。(複製品は図書館にも配布しましたので、興味ある方は閲覧して下さい。)
 この本は大正6年9月13日から17日まで野付牛で開催された「網走外三郡産馬共進会・教育衛生展覧会記念」に発行され、その大部分が商店の広告で、その中に左にある時計屋「土方抱月堂」の広告もありました。俳号をそのまま店名にしてしまうほど、俳句と生活が切れない関係にあったようです。広告を見ると、住所は大通り東3丁目で「時計及付属品一式」のほかに「蓄音機・音譜・眼鏡」を扱っていたようです。
 それでは除籍はあるか調べてみましたら、幸いなことに存在しました。それによると、土方常吉は、母・「土方くら」の子として元治元年(1864)2月4日生まれ、家督相続で明治16年(1883)12月12日戸主になり、明治40年(1907)4月8日愛知県丹羽郡犬山町大字犬山867番戸より北海道厚田郡厚田村大字厚田村30番地に転籍。明治45年2月8日、常呂郡大字野付牛村市街地14号に転籍したと書いてあります。大正12年12月27日には、野付牛町大通東3丁目14号に転籍。昭和9年5月16日に札幌市北八条東一丁目二番地に転籍されています。なお、子供は一男三女いました。佐藤せつさんと同級生の長女は「サチコ」ではなくて、「さと」が正しいようです。
 転籍届をした場所と日にちが、現実に住んだ場所と日にちと一致するとは限りませんが、おおよその土方の動きがわかります。明治40年に愛知県の犬山町(現・犬山市)から43歳で厚田村に籍を移し、その後、野付牛に移り、最終的には札幌に転出したことになります。大正7年、葬儀委員長をした時、土方は54歳でした。『野付牛総覧』で判断すれば、時計屋は大正12年以前に廃業していたことになります。手元にある一番古い地図、昭和4年の「野付牛明細図」で大通東3丁目14番地を見ると「高水商店」とあり、土方という名前を見ることができません。時計屋を止めてから、どうやって生計を立てていたかは全くわかりません。野付牛から札幌に籍を移した昭和9年(1934)には、当時ではかなり高齢の70歳になっています。
◇伝蔵であることを明らかにした場所は
 伊藤房次郎が、井上伝蔵であることを告白した場所はどこか混乱があるようなので、これも佐藤せつさんの証言で整理しておきたいと思います。
 「野付牛では、父の膀胱に石がたまりまして、町のお医者さんへ行きまして、石をとってもらうと楽に小水が出るようになりますが、それがだんだんひどくなって札幌の専門医へ入院するようになりました。(後略)/ふるえがきて、もう危篤の状態になりましてね、母にしてはもう本当に困ったらしいんですの。“早く人をよばなくちゃならない”ということが頭にございましたので、まず(伝蔵の)籍を聞きませんと葬うことも出来ません。(伝蔵が)落ち着きました時に、母が無理に看病に来て下さいますみなさんを“どうぞお引きとり下さい”と言って、そして“あなた早く、本当のことを言って下さい。本籍はどこですか”、すると父は“洋(兄)が来たら言う”といいます。それで、危篤の電報を打ちまして、北見から札幌まで一昼夜、来るのに時間がかかるんですね。朝六時に、兄が着きました。(母が)“実は、お父さんが本当のことを言うから聞きなさい”と言うんで、それから札幌で三日間、もう本当にもう、三人で真剣に話しあったんでしょう。そしてだいたい聞きましてから、“まずこの秩父事件というものを鑑定してもらわなくちゃならない。三十年も経って罪は時効になっているとは思うが、絶対に口外してはならない、単に埼玉県だけの問題じゃない、大きな国家的問題であるから、これは絶対に軽率な行動をしちゃならん”ということを厳重に父は申し渡したそうです。」
 「それから、医者の先生に二週間ぐらい経って、もう一度発作がおこったら、そのときはもう、危篤状態になるから、今のうち、野付牛に帰って、親類に会わせたほうがよい、と言われまして、また野付牛へ帰ることになったんでございます。(中略)それからは、父と母と兄とが、三人で語りあったということは、一つもございませんでした。/もういっさい、なにもかも、平生のとおりでした。それから札幌の病院の先生がおっしゃったように、ちょうど十日目にまた危篤の状態になりましてね。伝蔵最後の写真 左よりセツ 郁夫 ミキ 洋(ひろうみ) フミ ユキ写真屋を呼ぶということになりまして、父は絶対写真なんかを撮らせなかったんでしょうけれども、それは納得したらしいんですね。そしてあの寝ている写真を、え、あれも(亡くなる)何時間か前です。それも、すべて、母と兄との機転なんです。集まった近所の方にも、私たち四人の姉弟たちにも、(伝蔵が) 死んで、息を引きとった枕元でもって、“実はお父さんは、こういう人だった”ということを初めて聞かされたのです。非常に驚きまして、あらたに涙が出ましてね。生きてるうちに一言でも言ってもらいたくて、それが何よりもくやしい思いでございましたけれども、それくらい、三人とも全然、おくびにも出しませんでした。」
 以上の証言で明らかなのは、札幌で3日間にわたり自分の正体と秩父事件とのかかわりについて、伝蔵からミキと洋に対して告白がなされ、他の家族には死んで初めて真実が明らかにされたということです。野付牛の死の床で、正体を告白したのではありません。どうも、写真の印象が強烈で、そのような勘違いがおきるのかもしれません。不鮮明な写真のコピーですが、それでも家族に囲まれて穏やかな表情の井上伝蔵が感じられます。
 次号は、伝蔵の家族のその後について、触れてみたいと思います。

 《中庭だより》 
☆このヌプンケシも平成13年5月に創刊してから、今号で50号になりました。そこで、今回は特別に4ページだてにしたわけです。少しでも読まれるように、これからも努力してまいりたいと思いますので、益々のご指導とご支援をお願いいたします。
☆生まれ故郷の北見を訪問予定の、宮崎在住の女性の方から照会の電話がありました。昭和26年生れで、出生地が「9条通東5丁目」だというのですが、現在の条丁目になく少々あわてましたが、調査で昭和27年の字名改正後、三楽町になった所と判明しました。縁あって北見へ来てくれる人達には、出来るだけ親切に対応したいものです。
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