ヌプンケシ52号

2011年2月8日

北見市企画部(市史編さん担当) 〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-25-1039


市史編さんニュース NO.52
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平成15年7月15日発行

◎秩父事件と井上伝蔵(7) 

《伝蔵終焉の地は、北二条西一丁目七番地》

地図 すでに報道されたとおり、井上伝蔵が大正7年に最後を迎えた住所が明らかになりました。
 これまで筆者が予想もしなかった、駅に近い「野付牛町北二条西一丁目七番地」でした。現在の場所で言うと、左の地図に示したとおり、閉店した丸正デパートで二条側正面向かって右あたりになります。

◇手がかりは江差町役場にあった。
 伝蔵一家の住所を確認するために、北見での除籍を探していたことは前号でも書きましたが、とうとう発見できませんでした。理由は昭和7年に野付牛町役場が不審火で全焼して、戸籍資料が失われた結果と考えられます。昭和7年の火事以後も野付牛町に住んでいたならば、戸籍を復旧する届出がなされたかもしれないのですが、それ以前に洋等伝蔵一家は野付牛町を離れているようなので、そのような手続きはなかったと推理されます。
 さて、そうなると北見以外で確認できる戸籍資料はどこかにないか、ない知恵を絞ってみました。そこで以前読んだ森山軍治郎氏が昭和49年に書いた『民衆精神史の群像』の中で、江差町役場から高浜ミキの戸籍を取り寄せる下りがあったのを思い出しました。多分、井上伝蔵と婚姻したことになれば、江差町の高浜ミキの籍は廃止された筈で、その時の野付牛町での届出住所が記入されていると推測しました。
 しかし、その届出が大正7年(1918)となれば、85年も経過したことになります。こうした除籍の保存年限は通常80年ですから、何も配慮されずに自動的に廃棄されている可能性がありました。しかし、駄目もとで江差町に照会することにしましたが、幸いなことに江差町役場では、高浜ミキの除籍は保存されていました。役場から送っていただいた除籍を見ると、高浜ミキと2歳で亡くなった次男の季雄を含む6人の子供たちの籍が記載されていました。
 そこで高浜ミキの記載事項を見ますと、「廃家届出 大正七年六月二十四日常呂郡野付牛町長前田駒次受付 同年八月二日送付」、「埼玉県秩父郡下吉田村大字下吉田百二十一番地井上伝蔵ト婚姻届出 大正七年六月二十四日常呂郡野付牛町長前田駒次受付 同年八月二日送付 同月二十日入籍通知二因リ全戸除籍」とありました。
 肝心の届出住所ですが、三男郁雄の入籍事項に「常呂郡野付牛町北二条西一丁目七番地ニ於テ 出生母高浜ミキ届出」とあり、「これで問題解決」と一瞬小躍りしたものの、その後はとまどってしまいました。というのは、住所が米田コトさんや、郁雄と同学年であった生月(いけづき)喬さんの証言から筆者が予想していた「三条」ではなく、これまで全く情報にはなかった「二条」だったからです。
◇生月家の除籍からも「北二条西一丁目」
 念のために生月喬さんの除籍で住所を確認してみることにしました。じつは生月喬さんの息子さんが市役所に勤めていて、筆者とよく酒を飲む親友ですので、お願いして特別に除籍を見せてもらいました。それによると喬さんの父親、恒蔵さん(俳号・一喬)の本籍は「野付牛町北三条西一丁目三番地」でしたが、大正三年に生まれた二男の出生届出住所が「北二条西一丁目二番地」で、大正六年に生れた長女も、大正八年に生れた四男も同じ住所でしたが、大正十一年生れの五男、大正十四年生れの六男の届出住所は「北三条東三丁目三十六番地」になっていました。
 市内地図で見ると「北二条西一丁目二番地」とは角地の、最近閉鎖した北洋銀行のある場所で、ミキが届出を出した住所の「七番地」とは斜め向かいのご近所だったのです。少なくとも伝蔵が亡くなる晩期、大正三年から大正八年の間、生月家が同じ町内に住んで、井上(高浜)家と家族ぐるみで付き合っていたことは生月喬さんの証言からも間違いありません。
◇伝蔵の死亡届出で確定
 80年以上経っても江差町に高浜ミキの除籍があるのなら、吉田町にも井上伝蔵の除籍があるに違いない、と吉田町役場へ交付をお願いしたところ、快く除籍を送付してくれました。
 伝蔵の記載欄には「高浜ミキ婚姻届出大正七年六月二十四日野付牛町長前田駒次受付同年八月五日送付」、「大正七年六月二十四日午後三時北海道常呂郡野付牛町北二条西一丁目七番地ニ於テ死亡 同居者井上洋届出 野付牛町長前田駒次受付同年八月五日送付除籍」、「大正七年九月二日井上洋ノ家督相続届出アリタル」とありました。これで伝蔵終焉の地が「野付牛町北二条西一丁目七番地」で確定しました。
 なお、井上伝蔵の死亡日時は6月23日午前8時であることは聖徳寺の過去帳など各種資料から明らかですが、死人と結婚したことにはならないので、ミキは婚姻届出など入籍手続きを済ませるために、意図的に死亡を一日遅らせた6月24日午後3時にしたと考えられています。
◇何故、北見では伝蔵のことが忘れ去られたか。
 普通、こうした全国を騒がせた事件があれば「ここら当たりの家に伝蔵が住んでいた。」とか、何らかの形で庶民の言い伝えがあるもので、先日も「昭和7年頃に自分ら家族が住んでいた仁頃通りの家は、伝蔵の住宅だったと聞いている」という話が寄せられましたが、この「二条西一丁目七番地」に関してはこれまで何も情報がありませんでした。
 何故なのか筆者なりに考えた結果、大正15年6月に丸正デパートの前身、会陽館が同地に建設されたことが大きく作用していたと思いました。(会陽館といっても若い人は知らないでしょうが、二本の通路で一条と二条をつないで雑多な店舗が入った廉売場で、昭和36年1月に火事になるまで市民に親しまれていた買い物場でした。)伝蔵の家族たちも次々と野付牛を去り、会陽館建設で伝蔵たちが住んでいた家も取り壊され、街並みも商店街に変貌して、町内に古くから住む人たちもいなくなり、次第に伝蔵のことは話題にならなくなったのではないでしょうか。
 また、戦前の野付牛町の指導者層にとって、国家に反逆した逃亡犯・伝蔵が町に居住していた事実は、これから発展しようとする町にとって好ましくないことと思われたので、意識的に触れないようにし、『野付牛町誌』にも記録しなかったのではないでしょうか。しかも、昭和7年には役場の火事で伝蔵一家の唯一の公的記録であった除籍も焼失してしまったのです。
 こうして月日がたつうちに、住所どころか「かつて北見に井上伝蔵が住んでいた」こと自体が、多くの市民の記憶の中から消去されていったのでしょう。画像きく
 《中庭だより》 
☆1条通りの「高浜道具屋」について、信善光寺の加藤浩明氏から  「子供の頃、1条西4丁目にある郵便局の向かい正面にあった古道具屋が井上伝蔵の店と聞いた。」との話を頂きました。 また、郷土史研究家の海田勝男氏からは聖徳寺先代住職に以前聴いた話として「伝蔵を弔った三林遵護師からは葬儀屋が複数あった1条西5丁目あたりと聞いている。」との情報がありました。どちらも決め手がない伝聞で、正否を判断できる史料もなく全くお手上げの状態です。
☆古い史料保存について毎日考えさせられます。過日、せつさんや郁雄の学籍簿を複写しようと学校へ問合せたら「保存年限を過ぎたので廃棄した。」という回答にビックリ、ガックリ!
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