ヌプンケシ62号

2011年2月8日

北見市企画部(市史編さん担当) 〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157‐25‐1039


市史編さんニュース NO.62
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平成15年12月15日発行

◎民衆史研究家・小池喜孝先生ご逝去

koikea 12月7日付、北海道新聞に小池喜孝先生の訃報が掲載され、11月28日に埼玉県川越市の病院で亡くなられたとのことで、享年87歳でありました。先生は、前回市史の編さん委員、編集委員であり、北見北斗高校、美幌高校、北見工業高校の歴史教師として教鞭も執られ、またオホーツク民衆史運動の指導者でありました。平成14年(2002)1月には北海道新聞夕刊連載シリーズ『私のなかの歴史』で「心を掘る」と題して、小池先生からの聞き取りが連載されていましたので、すでにご存知かとも思いますが、一応ここにご経歴とご功績を記したいと思います。
◇小池先生の生まれは
 小池先生は大正5年(1916)9月11日、東京都東村山市に小学校長の子どもとして生まれました。昭和11年(1936)、青山師範学校を卒業、小学校教師となり、東郷小学校に勤務し、その傍ら法政大学高等師範部(夜間)に通い、独学で歴史や社会科の教科研究を続けました。その後、鷺宮国民学校に赴任、戦争末期、子供らと福島県に学童疎開しました。
 戦後、組合運動にも積極的に参加、東京都教育労働組合執行委員に選出され、書記局員として活動されました。また現場教師として国定日本史教科書『くにのあゆみ』批判の座談会に羽仁五郎、井上清らと参加するなど、各方面で活躍していましたが、昭和23年(1948)、疎開先での実践を理由に「教職不適格者」として「右翼パージ」されて教壇を追われ、大変精神的な屈辱を体験されたようです。その後、三笠書房等の編集に携わっておられました。
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◇北見北斗高校へ赴任
 昭和26年(1951)の公職追放処分解除後、教育への思い止みがたく、昭和28年(1953)8月、北見北斗高校へ社会科教師として赴任されました。
 北見北斗高校では、豊富な資料を縦横に駆使した歴史授業を熱心に行い、受験対策にも目配りし、細かい文字でびっしり要点が書き込まれたプリントを毎回生徒達に配布されました。
 熱心なのは授業だけでなく、北斗高校へ赴任するまでしたこともない卓球部の顧問をされ、自らも卓球に取り組まれ、後に国体の卓球壮年の部で高成績をあげておられます。小池先生の指導の下、卓球部は女子を中心に幾度も全道優勝し、全国大会に駒を進める功績をのこされました。
 昭和38年(1963)、埼玉県『埼玉百年史』の編集者より、大正7年(1918)に野付牛でなくなった井上伝蔵について、調査依頼があったのをきっかけに、独自に伝蔵の足跡を調査しはじめました。昭和41年(1966)、広域人事5ヵ年計画により美幌高校へ異動になりましたが、これ以降「ライフワーク」として、精力的に民衆史に取り組まれるようになりました。足で実地調査した井上伝蔵追跡結果を、昭和46年(1971)1月発行の『文芸北見』創刊号に「井上伝蔵の足跡を追って」と題して発表し、一躍全国から注目を浴びます。
 昭和47年7月には、以前から調査されていた『谷中から来た人たち 足尾鉱毒移民と田中正造』を発表。佐呂間町の栃木団体が、明治政府の奸策によって谷中村から「集団島流し」された経緯を明らかにし、入植者の栃木県帰郷運動を応援しました。
◇民衆史運動の組織化
 昭和48年(1973)、北見工業高校へ異動になったのを期に、北見歴史を語る会を組織し、地域の隠れた歴史、文字を持たなかった民衆の歴史の掘り起こしと記録を組織的に開始します。まず女性史講座を開設、その受講生を中心に北見女性史研究会が発足しました。翌年には「北見近現代史講座」を、昭和50年(1975)には「北見民衆史講座」を開設しましたが、その講座の特色は証言者をゲストとして参加させ、肉声で証言を語らせたことでした。また中央道路開削における囚人労働、常紋トンネルのタコ労働など、北海道開拓の犠牲者達をフィルド・ワークで掘り起こすとともに、これを地域開発の恩人として顕彰する運動を進めました。
 その頃の著作としては、昭和48年8月発行の『鎖 塚—自由民権運動と囚人労働の記録』、昭和49年8月発行の『秩父颪—秩父事件と井上伝蔵』、昭和51年(1976)3月『伝蔵と森蔵 自由民権とアイヌ連帯の記録』があります。これら秩父事件とその後を明らかにした著作は、秩父事件90周年に際して、秩父地方の秩父事件処刑者遺族の名誉回復に大きな力となりました。
 その後、広く北方少数民族ウィルタやアイヌ問題、また中国人・朝鮮人強制連行にも目を向け、昭和51年(1976)10月に「オホーツク民衆史講座」に発展します。昭和52年、小池氏は北海道歴史教育者協議会副会長になり、翌53年(1978)には全道の民衆史運動の交流発展を目的に「人権と民主主義を守る民衆史掘りおこし北海道連絡会」を結成して、事務局長となりました。昭和56年7月9日には、経済センターで自由民権百年北見集会を開催しました。
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 その頃の主な著作は以下のとおりです。
   昭和52年(1977)1月『語り出した民衆の記録−オホーツク民衆史−』共著
   昭和52年(1977)6月『常紋トンネル—北辺に斃れたタコ労働者の碑
   昭和53年(1978)8月『民衆史運動 その歴史と理論』共著
   昭和54年(1979)4月『雪の墓標—タコ部屋に潜入した脱走兵の告白』賀沢昇氏との共著
   昭和55年(1980)12月『平民社農場の人々—明治社会主義者のロマンと生きざま
   昭和56年(1981)8月『写真と文・北の獅子たち−自由民権と北海道−』写真・佐藤毅
   昭和57年(1982)4月オホーツク民衆史講座100講記念『名もなき民衆の証言』共著
 昭和53年(1978)3月、北見工業高校を定年退職し、昭和57年(1982)10月、小池先生は29年間暮らした北見を離れ、息子さんが教師に就職した埼玉県東松山市に移住されました。
◇小池先生の研究方法の特徴
 『北見の文学ものがたり』において、菅原政雄氏は小池先生の研究方法の特徴を次の様に評しています。「小池喜孝の仕事の特徴の一つは、『供養し顕彰する』ところにありますが、これは、埋もれた民衆の復権と、住民の人権意識を掘り起こす営みであると見ることができるでしょう。又一つは、歴史の証人の肉声に触れ、歴史意識を共有しようとする民衆史講座・集会の形式にもあります。つまり在来の研究者の方法とは本質的にことなり、記録にとどまらぬその運動性にあると言えると思います。/そして又、みずからのうちに被害者意識のみならず、加害者の意識をも掘り起こすところに小池の独自性があると見られます。更に又小池は、歴史と運動を描くのに、埋もれた歴史に一定の推理を働かせ、自分をそこに投入させながら、ドキュメント、ルポルタージュの手法を用います。そのため彼の著作は、きわめて文学性の濃いものとなっています。」
 先生の愛読書は、筆者の知るところ松本清張でありました。文字を知らず、記録されることのなかった民衆の側に立って、口伝や幽霊伝説など今まで非科学的と見過されてきた事を基に推理していく。つまり権力による「完全犯罪」に、推理で立ち向かっていたとも言えます。それだけに学術的には実証性において脆弱であったことは否定できませんが、小池先生が組織した民衆史運動は、民衆の歴史学習運動として、これからも高く評価されるべきだと思っております。
 筆者が昨年出札したおりに購入した『北方文芸』別冊5に小池先生が「一庶民の思想史」を書かれ、以後連載予定とのことで期待しておりましたから、訃報に接して誠に残念でありました。

 《中庭だより》 
☆中嶋幸三氏に岡部清太郎関係ニュースをお送りしたところ、『文芸秩父』に転載されました。その124号を編集者から図書館にご寄贈頂きましたので、興味ある方はご覧下さい。
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