ヌプンケシ63号

2011年2月8日

北見市企画部(市史編さん担当) 〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157‐25‐1039


市史編さんニュース NO.63
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平成16年1月1日発行

新年明けましておめでとうございます。本年もよろしくご愛読ください

◎馬橇の御者から代議士へ「尾崎天風」(1)               kadomat
 尾崎天風といっても、かなり年配の方はともかく、若い方はほとんど知らないと思います。
ozaki でも旅行の途中、石北峠で小休止した時など峠の頂上に登り、左に示した写真の銅像を見たことは一度はあるでしょう。この銅像になった人物が尾崎天風なのです。この銅像を見て、まず気がつくのは「手の内は見せないぞ。」というように傲然と両手を背広の胸に突っ込んでいることと、次に天下を睥睨しているような迫力ある面構えです。その碑文の要旨には、前代議士であった尾崎天風が留辺蘂上川線開削に尽力したことに感謝し、昭和34年6月、上川町長野田晴男・留辺蘂町長佐野準一郎がこの像を贈ったことしかなく、細かい彼の経歴は書かれていません。
 その尾崎は、銅像が完成して1年も経たない昭和35年(1960)3月24日になくなっています。北海道新聞の死亡記事でも「尾崎天風氏 (元代議士)二十四日午前三時東京都麻布笄町一七六の自宅で脳出血で死去、七十三歳。佐賀県出身。明治三十一年渡道、常呂村、網走町で農業、木材業を営む。昭和七年、同十一年代議士当選二回」と簡単にしか記されていません。
◇尾崎は釧路新聞の通信員だった。
 前々号でも報告した岡部清太郎を調査するうちに、昭和39年9月発行の『留辺蘂町史』に「大正四年に故尾崎天風が釧路新聞の通信所を設け元町に事務所を置いた」とあり、同巻末年表には大正5年の項に「尾崎天風釧路新聞通信所を設ける」との記述があることに気づきました。大正4年(1915)4月に、野付牛村が一級町村制を施行、置戸・武華村(留辺蘂)が分村していますから、それに伴って大正4年か、5年に尾崎が釧路新聞通信所を設け、新聞に係わるようになったようです。岡部の親族の方から聞いた話でも、「大言壮語する態度の大きい人物」との評価でした。
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 当職が図書館で勤務していた時に偶然入手した、大正6年(1917)に武華(現・温根湯)小学校が新築された時の記念写真の中に、岡部清太郎が写っており、不思議に思っていたのですが、通信所ができたとすれば、報道関係で招待されたのでしょう。尾崎天風も同席している可能性がありますが、比較すべき彼の顔写真は道立図書館の資料にもなく、特定できません。(当職としては、岡部の左横で正面を向いている人物が尾崎かも知れないと思っております。)
◇『馬喰一代』の敵役・小坂六太郎のモデル?
 今では地酒の名前になっている、昭和24年に発表された留辺蘂町を舞台にした中山正男の自伝的な小説、『馬喰一代』をご存じですか。昭和27年には、大映で三船敏郎を主演に映画化されました。(馬喰=「ばくろう」とは、馬などの売買をしていた人たちのことで、昔は北海道弁で物を交換することを「ばくる」といったものですが、この職業が語源だとする説があります。)
 この小説の主人公である大平の父親、「片山米太郎」の敵役で登場してくる、後に代議士・小坂龍堂になる、博打好きの馬喰「小坂六太郎」のモデルが、この尾崎天風と言われています。
 佐呂間町郷土研究会が1994年発行した『さろまむかしむかし』に、「乗合い馬橇の御者だった代議士尾崎天風」という項目があり、本名は「尾崎百太郎」といい、「明治一九年、佐賀県に生まれ明治三一年に常呂に移住してきた。/明治の三〇年代半ばごろ、常呂と野付牛を結ぶ通称ノッケ街道の駅逓馬橇の御者をしていた、後に五区から衆議院議員になる、尾崎天風その人である。」と書かれています。同書によれば、大正の始め頃には佐呂間で「料理屋を経営」し、大正3年の鐺沸村(翌4年11月佐呂間村に改称)分村独立の折、抜け目なく役人を接待したらしく、役場も当初村民が陳情した場所と違う、「佐呂間市街、天風の料理屋の道路向」に決定し、料理店の一部を月8円で借上げて改装し、仮庁舎として開設したそうです。そして、大正4,5年には釧路新聞の肩書きも得たわけですから、野心家に更に「力」を与えたようなものでしょう。
◇公有林盗伐事件と尾崎天風
 『馬喰一代』では、小坂六太郎が木材に手をだして儲けた話があり、「きくところによれば、当時の木材師はずいぶん荒っぽいことをやったそうだ。山に火をつけてその山の焼木や破損木の払下げを願うのだ。もし許可になったら、この時とばかりに近くの山の盗伐をやって、許可石数の何倍も伐りまくる。それを坑木や製材にしてボロい儲けをした。」とあります。
 第1次世界大戦の推移とともに、大正6年(1917)木材景気が起き、置戸では公有林の大掛かりな盗伐があり、町全体が景気で沸いていたそうです。そこへ「盗伐をかぎつけた新聞記者が現地視察を行った折、終始酒食の饗応を受け帰りには千金を握らされて黙殺を頼まれた」ことが昭和32年発行の『置戸町史』に紹介されていますが、この記者が尾崎であったかはわかりません。
 結局、町ぐるみの大盗伐は「置戸中山事件」として大正9年摘発されますが、法曹界の大物、花井卓蔵博士が弁護人になった結果、大正14年に証拠不十分で無罪判決を見ることになりますが、その花井博士を「遙々札幌まで引っ張り出し堂々無罪論を主張させた」のが尾崎で、彼自身も「置戸事件に引
barつかかり未決に収容され」た、と昭和10年発行の『北海道の新聞と新聞人』にありますから、まんざら関係が無かったとは言えないようです。
 このように当時の新聞記者にとって、「木材取引」は魅力的な副業だったのでしょう。
◇木材取引で大儲け
 尾崎は大正9年に北見国から札幌に進出し、毎月多額の赤字続きで解散した『北海道報社』を継承し、『北海道新聞』(現在の道新とは全く無関係)と改題して経営を開始したそうですから、いずれにしろ当時彼はかなりの財産をすでに築いていたものと考えられます。
 同じく『北海道の新聞と新聞人』の中で、尾崎について次のエピソードが紹介されています。
 「彼の剛腹な政治家故大木遠吉伯が鉄相時代いつの間にか同伯に取り入り恰も私設秘書格で伯爵宅を出入りしてゐた折り、偶然同邸の応接間で時の樺太長官永井金次郎君と邂逅し互に名刺交換をやった。所が永井長官もどうか樺太へも一度訪ねて来て呉れと御世辞を振り蒔いたので、此好機逸すべからずとなし、樺太山林の年期特売に着眼し、妻君に説伏させ妻君の実家から一萬か二萬の軍用金を出させ(先妻の実家は越後の豪農で、女子大学の出身である所から世間では詐欺結婚だなどと悪口をいふものもある)大木伯の添書を懐ろに悠然と一等車に乗込んで樺太へと向かった」。そして長官と旧知の仲であるかのように堂々と樺太庁に現れ、長官もその計略に乗せられ「同行の名古屋木材商某は年期特売出願の有資格者でもあることだから何十万石かの立木払下を許可したので、尾崎君も茲に於てはじめて莫大な利権にありつき爾来々渡樺し樺太林業株式会社を組織するやらその他大儲けをして今日の礎を築き上げた」とあります。
 因みに永井金次郎長官の在任期間は大正8年4月17日〜同13年6月13日で、また大木遠吉が鉄道大臣であったのは大正11年6月から12年9月までですから、その間の出来事でしょう。
 この尾崎の経歴は、庶民が北海道で一旗揚げた数少ない「成功例」の一つと言えます。(続く)

 《中庭だより》 
☆新年いかがお過ごしでしょうか。今年が市民の皆様にとって良い年になりますように、職員一同祈念いたしております。おかげさまで『北見現代史』も、編集委員の手で史稿として次第に姿を現してきています。本年もこのヌプンケシが皆様に少しでも読まれるように努力してまいりたいと存じますので、旧年に倍してのご指導、ご支援をお願いいたします。
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