ヌプンケシ85号

2011年2月8日

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市史編さんニュース NO.85
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平成16年12月1日発行

◎『釧路新聞』を閲覧して(2)

◇野付牛村有志による栃木移民団の歓迎
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 当時の小山駅に集合した移民 (版画 小口一郎)

 明治44年(1911)の釧路新聞で気になった記事としては4月7日付「北見移民近況(野付牛村有志の斡旋)」があり「栃木県水害罹災民 七十二戸二百八十四名は国庫補助並に地方の義捐を受けて本道に移住する事となり これが移住地は常呂郡鐺沸村サロマ原野と確定し 来る十二日陸別より建築列車に搭載して野付牛に着し 壮年者は翌十三日十四里の行程を踏破して直ちに現地サロマに至り 老幼の二者は十三日ルベシベに一泊 十四日現地に着する事となりたれば(中略)また一方野付牛有志の間においても かなり便宜を与えん事の申合せをなし 寺院並に演劇場をもって彼等の宿泊所にあて 布団等はこれを醵出してなるべく費用を省かんことに努めつつあり(後略)」と官民あげて歓迎準備をしていることを報じています。
 4月16日付には、「栃木移民満足(野付牛の歓迎対し)」という見出し記事があります。
 「昨夏未曾有の水害に遭遇せる栃木県下 都賀郡部屋村々民は 被害の程度激甚にて活路を求むるに途なく 国庫の補助を得て今回野付牛をへだてる十四里の行程なる佐呂間原野に移住することとなり 六十六戸二百十五名の水害移住民は本月六日郷土部屋村を出発し 本道沿線各駅の歓迎を受けつつ 昨十二日予定時刻より少し遅れて八台の有蓋車に搭載せる同胞の一群は来れり これより先き野付牛より川渕収入役、有志代表鈴木幸吉の諸氏を始めとして 網走支庁より出張せる原田、佐藤、青木の三事業手 道庁より特派の宮川、山口、前田の三技手は一行を置戸駅までこれを出迎え 一方村内においては長谷川村長をはじめ早稲田直蔵、志村金作、千葉清治、江藤矢一、中田又吉、田尾谷五郎、荒井宇太郎、鈴木幸吉、北村幸蔵、和田澤吉の諸氏いずれも極力歓迎の準備に当り 野付牛郵便局にては特に太一運送店々内臨時郵便取扱所を設け もって移住団体の便利を図り 宿舎等についても優待に遺憾なきを努め また団体の停車場に着するや 市川亭、三浦亭、松月亭、上山亭、梅の屋、岡本亭、北見亭、福島亭、三笠亭、曙亭、萬盛庵の各料理店及び和崎、黒部、千葉、松本、梅原の各旅館、木橋、進交、嶺、鈴木の各商店より寄贈せるビスケットその他の菓子類を一同に分配し 一方さらに葉書 湯札 草鞋 足袋等をもそれぞれ分与するところありしかば 一行の喜び一方ならず感極まって泣きたる者さえあり かくのごとく野付牛村民によりて大歓迎を受けたる一団の移民は本日午前九時仮停車場に集合し 幼老者は地方有志の奔走になれる三十五台の馬車に分乗して目的の地点に向う 栃木県庁及び都賀郡役所より特派せられたる 鈴木属以下数名その他また同伴す(十三日野付牛)」
 一般移民なのに、野付牛の有力者達が歓迎準備をし、道庁や網走支庁の役人が出迎えるは、栃木県庁・郡役所役人は同伴してくるなど、行政を含めてあまり例のない対応をしているのには理由があります。この移民団は、もともとは社会問題化していた、足尾銅山の採鉱精錬による鉱毒で被害をうけた栃木県下都賀郡南部八か町村に暮らしていた人々だったからです。
◇足尾銅山鉱毒事件
 明治10年(1877)、古河市兵衛が足尾銅山を買収して以来、銅山から垂れ流された鉱毒は、関東平野を貫流する利根川の支流=渡良瀬川が氾濫するたびに、魚類や農作物に大きな被害を与えました。つまり、日本最初の「公害」問題でした。被害民たちは栃木県選出代議士田中正造とともに、足尾銅山の操業停止を訴え、東京へ大挙請願運動を起こすなど鉱毒反対運動を展開しました。社会問題化するに連れて、明治政府はこの運動に弾圧を加えました。
 田中正造は「足尾銅山鉱毒事件」として国会で取り上げ、繰り返し鉱山主古川市兵衛と政府の責任を追及しましたが、歴代政府の誠意ある対応を得られず、ついには明治34年(1901)天皇直訴未遂事件まで起しました。この行動は当時のインテリ層や学生たちに衝撃を与えて、全国的な救援運動がおこりました。
 これに対して、明治政府は日露戦争中、足尾銅山の銅は兵器生産に不可欠なものと考え、古川財閥を擁護する立場に立ち、鉱毒問題を治水問題にすり替えて、買収、脅迫、懐柔、あらゆる策を用いて運動を分断し、最後まで谷中村にとどまっていた16戸には遊水地設置を理由に明治40年(1907)家屋破壊の強制執行が行われました。その上に、明治43年の民家の2階まで達する大洪水がおこり、窮乏した農民たちは栃木県が勧める北海道移民に応じるしかなかったようです。これは「移民」ではなくて、明治政府による抵抗勢力の「島流し」=「棄民」だったという人もいます。野付牛村民有志も彼らの境遇に同情し、歓迎したのだと思います。
 今も足尾には約2000ヘクタールの禿山、旧谷中村周辺には3000ヘクタールの湿地帯が広がり、鉱毒が残した被害の大きさを物語っているそうです。
◇栃木部落
 最初の記事では入植戸数72戸とあって、次の記事では最終的に66戸となっているのは、最後まで移住するか、迷っていた農民家族がいたことを示しています。実際、栃木の駅で姿を隠した者もいたそうです。妻から北海道移住を大反対されて、夫婦別れした者もいたようです。
 先の新聞記事を見ると、移民団は難なく目的地についたように読めますが、実際は相当苦労したようです。小池喜孝氏が昭和47年(1972)7月に発行した『谷中から来た人たち』にある、下都賀郡役所の役人で移住事務取扱委員であった大貫権一郎の日記で見てみましょう。
 「四月十四日 午前七時出発。老幼者を馬車に分乗せしめ、第三区(相ノ内)を出発す。道路の泥濘なる閉口の外なし。第四区『ルベシベ』より約三里の間は峠にして、一方は山岳一方は渓谷なれば、その危険と困難は想像外なり。加うるに融雪中の雪路なれば、歩行容易ならず。足跡を一歩誤れば二尺乃至三尺深さの雪中に両脚を没し、ようやく股にて止まる。又途上に顛倒するあ
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 雪のルベシベ峠を越す移民 (版画 小口一郎)

り、その状況言語に尽しがたし。老幼病人はいずれも橇に乗ぜしめ、サロマベツ字武士に着(行程九里なり)各民家に分宿せしむ。月光をいだきつつ、凸凹甚だしき雪路を踏み、午後九時頃ようやく到着するを得たり。」
 移民の服装は着物に白タビに草履で、全然冬の用意はなかったようです。雪道に難渋して、泣き出し、もう帰りたいという者も大勢いた、というのも理解できます。4月15日からは学校に移民団は寝泊りし16日に現地調査に行くと仮小屋4棟内部には融雪水が流れ住める状態ではなかったようです。厳しい自然条件の中で、困難な開拓が始まり、栃木部落を形成していきました。しかし、数度の帰郷運動の末、昭和47年、6戸の家族は栃木県に帰りました。
 車で仁頃からルクシ峠トンネルを過ぎ、眼下、左手に栃木部落を見ることができます。そんな時、ここに苦労して谷中村から開拓にやってきた人たちがいたことを思い出してください。

 《中庭だより》 
☆11月15日、井上伝蔵のお孫さん=佐藤知行氏から貴重な写真類が当室に届き、複写も許可して頂きました。これでまた、当市に貴重な財産が増えた、と筆者は喜んでおります。
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