歴史民俗資料館:中央道路と鎖塚

2011年4月21日

 

 明治24年(1891年)、網走から北見峠までの間につくられた中央道路は、その建設に囚人たちが使われ、多くの犠牲者を出したことから、囚人道路ともいわれています。
 北見市端野町緋牛内にある鎖塚はその犠牲者が眠っているとされ、鎖塚保存会によって手厚く慰霊されています。

所在地  北見市端野町緋牛内842番地8

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1.中央道路とは

 北方の防備と開拓は、明治政府の大きな問題でした。屯田兵はその役割を担っていましたが、内陸部へ入植するための道路が必要でした。
 中央道路はそのための重要な道路として建設が急がれ、網走監獄の囚人約1100人と職員200人余がその工事にあてられ、明治24年のわずか1年間で、網走から北見峠までの約160kmが開通しました。
 囚人道路・北見道路ともいわれています。
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2.中央道路の経路

 網走市から網走湖西岸をとおり、女満別町~端野地区~北見市街~留辺蘂地区~佐呂間町~旧生田原町~旧遠軽町~旧丸瀬布町~旧白滝村~北見峠までとなっています。
 網走~北見市端野町緋牛内間は道道104号線、緋牛内~北見~留辺蘂地区間は国道39号、留辺蘂地区~佐呂間町花園間は道道103号線、佐呂間~旧生田原町間は共立峠、旧生田原町~北見峠までは国道333号がほぼ当時の経路となっています。

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3.網走監獄と囚人

 道路を建設する際にはその労働力が大きな問題でしたが、当時の明治政府の高官金子堅太郎が「囚人を使うべきである」と献策し、囚人が使われることになりました。
 当時は根室管内の現標茶町に釧路監獄がありましたが、その囚人を網走に移し、網走監獄が開設されました。
 当時の囚人には明治政府に反対する自由民権運動にかかわった者もおり、現在では罪に問われないような思想犯も多くいました。
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4.工事の様子と犠牲者

 4月開始の工事は、12月までに約161kmを人力で完成させるという突貫工事でした。
 人跡未踏の原始林や原野を人力のみで切り開き、朝早くから夜遅くまで働かされ、栄養も十分にとれないため、死亡者が相次ぎました。その犠牲者の数は200人以上といわれています。
 中央道路の経路中にはその犠牲者を弔う慰霊碑が各地に建立されています。

所在地  北見市端野町緋牛内842番地8

 

 

5.中央道路開通後

 中央道路が開通されると、翌年以降にはその経路に次々と、旅館と郵便局を兼ねた性格を持つ「駅逓」が開設されました。
 そして明治30、31年には屯田兵第四大隊が中央道路をとおって端野町に入植しました。ただしその道路は長く手入れがされていなかったために、かなり難儀なものでした。
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6.鎖塚と慰霊

 緋牛内にある土饅頭の上に囚人が使っていた鎖が乗せられていたといいます。故中澤廣氏(元端野町長)が昭和43年に鎖塚と命名した立て札を立て、地蔵尊を建立しました。
 昭和51年には鎖塚慰霊奉賛会によって慰霊碑が建立され、鎖塚保存会が結成されました。
 端野町の人々はこれらの犠牲者たちを、町の発展の基礎を築いた先人たちとして、手厚く慰霊しています。平成4年には、端野町指定文化財に指定されています。

鎖塚供養碑所在地  北見市端野町緋牛内842番地8

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7.各地の慰霊碑と駅逓跡碑

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1872 監獄則施行。集冶監は「徒刑・流刑及旧法懲役終身ニ処セラレタル者ヲ拘禁スル所トス」〔M5〕
1879 内務卿伊藤博文、太政大臣三条実美に伺書を提出。要旨「囚人に課すべき開墾・工業のための広大な土地と、良民に被害を与えぬための土地は北海道をおいてない」〔M12.9.17〕
1881 北海道の集冶監が、徒刑、流刑、重懲役、終身の刑の者を拘禁する所に定められる〔M14.5〕
1881 樺戸集冶監が石狩国樺戸郡須倍都(現月形町)に開庁。典獄月形潔〔M14.9.15〕
1881 自由党結成〔M14.10.29〕
1882 空知集冶監が石狩国空知郡市来知(現三笠市)に開庁。典獄渡辺惟精〔M15.7.5〕
1884 秩父事件〔M17.10.31〕
1885 太政官書記官金子堅太郎が北海道三県巡視復命書を提出。要旨「北海道に道路を巡らし、拓地殖民を急ぐ必要がある」〔M18.10〕
1885 釧路集冶監〔俗に標茶集冶監〕が釧路郡熊牛村に開庁〔M18.11.15〕
1886 北海道三県を廃し、北海道庁を設置。道内の集冶監は、内務省から道庁に移管〔M19.1.26〕
1886 市来知〜忠別太間の上川仮道路を着工。樺戸集冶監の囚徒を使役して8月竣工〔M19.5〕
1887 三集冶監を樺戸監獄署、空知監獄署、釧路監獄署と改称〔M20.1.4〕
1888 永山武四郎屯田兵本部長がロシア・清国・アメリカの兵制視察より帰国し具申書を提出。要旨「国防を重視し、天塩・北見の拓殖・国防及び交通整備が急務である」〔M21.2〕
1889 空知監獄署囚人により忠別太・網走間(北見道路)仮道路の開削開始。8月完成〔M23.6.29〕
1890 釧路監獄署が北見道路開削のため、網走最寄に網走囚徒外役所を設置。〔M23.3〕
1890 空知監獄署により忠別太(旭川市神居)〜エーカウス(伊香牛)間道路着工。10月完成〔M23.4〕
1890 釧路監獄署網走囚徒外役所建設仮工事を開始〔M23.4〕
1890 樺戸、空知、釧路の監獄署を集冶監の旧称に復す〔M23.7.22〕
1891 釧路集冶監の囚人1,100人余によって工事着手〔M24.4.5〕
1891 釧路集冶監網走分監となる〔M24.6〕
1891 網走〜上越間の中央道路完成〔M24.12.27〕
1892 越歳(一号)から野上(六号)までの駅逓開設〔M25.3.16〕
1893 滝ノ下(七号)、中越(九号)駅逓開設〔M26.6.30〕
1897 北見市に屯田兵第一陣入地〔M30.6.7〕
1905 端野駅逓が緋牛内に移転。名称も緋牛内駅逓と改称〔M38.2.26〕
1966 中澤廣氏、「開拓夜話」を著。鎖塚を記述〔S41.12.1〕
1969 中澤廣氏、鎖塚の標柱を建てる〔S44〕
1973 中澤廣氏、鎖塚に地蔵尊を建立〔S48.7.15〕
1976 鎖塚慰霊事業協賛会が浄財を集め、六地蔵、供養碑を建立〔S51.10.17〕
1979 緋牛内鎖塚保存会規約を決議、保存会発足〔S54.7〕
1991 端野町で中央道路開削100周年記念特別展開催〔H3.11〕
記念シンポジウムを開催〔H3.12.1〕
1992 「鎖塚の区域」が端野町の文化財に指定〔H4.2.27〕
 

中央道路関係各地の慰霊碑等

鎖塚供養碑・六地蔵 1976.10(端野町)

中央道路開削犠牲者慰霊碑 1996.7(北見市)

中央道路開拓犠牲者慰霊之碑 1985.11(留辺蘂町)

中央道路犠牲者之墓 1985.11(留辺蘂町)

菩薩像 1986.5(留辺蘂町)

太子堂 1915.3(生田原町)

山の神の碑 1905(遠軽町)

国道開削殉難慰霊之碑 1976.9(遠軽町)

中央道路開削殉難者慰霊の碑 1974.8(白滝村)

中央道路関係参考文献

新北海道史年表[1989]北海道出版企画センター(北海道)

開拓夜話[1966]端野町(中澤 廣)

鎖塚[1974]現代史出版会(小池喜孝)

写真集「鎖塚・常紋トンネル」[1977]

オホーツク民衆史講座(佐藤 毅)

端野の夜明け・端野小史第一集[1987]端野町(端野小史編集委員会)

ル・ペシ・ペの墓標[1990](中央道路開削犠牲者追悼碑建設期成会)

北海道道路史[1990](北海道道路史調査会)

中央道路開削100周年記念シンポジウム・特別展目録[1991](端野町教育委員会)

北海道開拓殉難者調査報告書[1991](北海道総合文化開発機構)

地図

お問い合わせ

端野町歴史民俗資料館
電話:0157-56-2560