ヌプンケシ170号

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市史編さんニュース NO.170
 タイトルヌプンケシ
平成21年7月1日発行

◎杉町 八重充と徴兵制(4)

◇青年の政治主張と雄弁会
 明治期の自由民権運動では、弁論で政治の問題点を摘出し、政治主張を直接訴える弁士の演説は民衆には新鮮で、花形弁士が出る演説会は一種の興行になるほどの人気でした。これによって演説の政治的有効性が広く認識され、弁論は政治家に必要不可欠な技術となりました。この影響を受けて、明治時代から大正時代の学生達は当時の社会問題や政治問題に深く関心を寄せ、学内外で自己の主張を演説で積極的に訴えました。学生達はその弁論の技量を磨き、主張を訴えるために「雄弁会」という組織をつくりました。(今はサークルとして「弁論部」と呼ぶところが多いようです。)記録にある組織では明治34年(1901)創設の中央大学辞達学会が最古で、多くの政治家を輩出している早稲田大学雄弁会は明治35年(1902)に創設されました。
 『明治大学百年史』第三巻によれば、明治大学でも明治36年(1903)に有志が雄弁会を組織しましたが、会員の卒業と共に停滞し、明治41年(1908)に「弁舌を修練し広く智識の交換及会員相互の親睦を謀る」ことを目的に再発足しました。その「明治大学雄弁会の特徴はどんなものであったのだろうか。大正五年(1916)一月の『雄弁』(第七巻第一号)によれば、明治大学の特色は『革命的雄弁家』の多いことだという。明治大学生は早稲田大学生の様に実際的方面に長けているわけではなく、慶応大学生の様にゼントルマンライクではない。明治大学生は早稲田や慶応の学生ほど明確な方向性をもたないことから、演説は悲観的状況をおび、ついには破壊的叫喚を発する傾向にあると特徴づけられている。」そうです。
 当時は、東京帝国大学首席書記であった野間清治が雄弁会の活発な動きに目をつけ、明治42年(1909)大日本雄弁会を設立し、翌年雄弁会の演説原稿を掲載した雑誌『雄弁』を創刊して出版経営者として成功を収めるほど、雄弁会の活動は社会的に関心を持たれていたのです。ちなみに、この大日本雄弁会は現在の、日本最大の出版社「講談社」となりました。
◇高橋義臣と明治大学雄弁会
 『明治大学史紀要』第2号で、高橋義臣は当時の雄弁会について次のように語っています。
 「僕は北海中学校の出身です。在学中は雄弁部に所属し、北海道開拓問題などでよく論議し合ったものです。僕は必ずしも進学を第一義と考えなかったので、卒業の折にどこも受験せず、まず実社会を経験してみようと思って、札幌で職工や事務員になりました。
 あれはたしか大正六年の夏だったと思いますが、中学の教頭の紹介で東北帝大農科大学(現北海道大学)の教務課に奉職していた折、札幌の時計台に農科大学、小樽高商や東京の諸大学の学生が集って雄弁大会が開かれた。もともと弁論に関心があったので、早速聴きに行った。そうしますと、制服の弁士の演説の最後に、角刈頭で金ブチ眼鏡を掛け、白絣に絽の羽織袴、それに白足袋といういでたちの学生弁士が現れた。それが明治大学の関未代策君(故人、明治大学教授)で当日の優勝者であった。関君の演説は、憲政の在り方を論じ、陸軍大臣の内閣における地位を批判した実に堂々たるものでありました。集会写真これが政談演説会であったら、『弁士中止!』をくらうにちがいないと思った。
 とにかく明治大学には素晴らしい学生弁士がいるものだなあと感動した。弁論を学びたいという情熱が高まり、翌七年(1918)の春、ためらうことなく明治大学の予科政治経済科に入学しました。政科を選んだのは、弁論活動をするのにふさわしいと考えたからだ。入学者は全国各地から集っていたが、人数は少なく、法科、商科の十分の一にも足らないものであった。」
 「そもそも入学の動機が、弁論活動をしたいというところにあったので、直ぐに雄弁会に入会しました。当時僕は弁論活動することが自分にとって一番大切なことだと感じていました。
 雄弁会の会員は四〇名前後であったと思います。会長は植原悦二郎先生でした。会員の組織は、それぞれの学科から一人ずつその学科の代表者を選んで幹事とし、幹事が全ての運営にあたった。僕も幹事の一人でした。」
 大正デモクラシーと総称される時代の空気の中で、雄弁会では模擬国会を開催して普通選挙法を取上げたり、大学の連合演説会で政府の政策を批判したり、おおらかに活動していました。
「ともあれ、雄弁会は自由闊達であり、学生の主張を代表するような存在であった、といっていいでしょう。」
◇予科時代から「講座・教室問題」で大学当局と交渉
 大学昇格で予科政治経済科出身の学生が不満を募らせていたことは前号でレポートしたとおりですが、高橋義臣の証言では予科時代からも講座・教室をめぐって不満が多かったようです。
 政治経済科は「政科とは呼ばれていましたが、実質的には一、二年にわたって法科と全く同じ講座が配置されており、講義も合併でした。つまり政科はあっても、それは名目だけであった。政科の学生数がすくなかったために、こうした安易な策がとられたかも知れませんが、大学当局は、新大学令による大学への昇格を目ざして形式要件を備えることに追われ、内部の整備をおこたっていたとしかいいようがありません。/政科の学生の不満は、名目的な学科の在り方にあった。今日的にいえば、ホーム・ルームがないところにあったといえましょう。僕らは、修業年限が二ヵ年に延長になった最初の予科生だし、しっかり勉強しなければならないと思っていたので、余計に不満を感じました。そこで、昼休みになるとみんなが集まり、政科の不満について卓をたたいて論議したものです。中心は雄弁会の学生でした。論議し合うことは、弁舌の練習でもあったんですね、そういう時代でした。/私はクラス委員でしたから、入学した年の秋ごろより政科の講座、教室事情の改善に大学当局と交渉を続けてきた。ほとんど一人でした。交渉に行くといつも田島学監と豊田教務課長が唯々諾々として会ってくれたんです。僕の云ったことに大して、『けしからん奴だ』というような素振りは全くなかった。本当にいつもにこにこして、『よしよし、わかった』と云ってくれたので、改善してくれるものだと思っていました。しかし、口約束しながら、実は何も手をつけてなかったのです。事件後になって、大学当局は『明治大学学報』の第五一号(大正九年一二月一五日)の中で、『学校当局と学生側との意思の疎通を欠きたるに基きたるものなり』と書いているが、これは全く真実ではありません。僕は二年近くも交渉しているんだ。」
 少しでも良い条件で政治経済の勉強をしたいという学生達の願いを、学監=田島義方と教務課長=豊田国蔵が適当にあしらってきた結果が大きな事件を起すことになりました。(続く)
《中庭だより》☆この間、インターネットで当ニュースを見た本州の美術館等から「戦時ポスター」類の問合せが2件ありました。これらは故・香川軍男氏が戦中に収集・保存していたもので、ご遺族から当市にご寄贈頂き、今や全国から注目される貴重な資料類になっています。
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