ヌプンケシ229号

 

〒090-0024  北見市北4条東4丁目 北見市役所第1分庁舎 市史編さん主幹   TEL0157-25-1039


市史編さんニュース NO.229

タイトル ヌプンケシ

平成23年12月15日発行


◎『屯田兵および家族教令』と『兵員及家族教令』(6)

◇屯田兵精神は戦時下至誠奉公の手本

 前述の『屯田兵開拓敢闘録』で、岸田課長は続けて次のように語っています。

 「今回開拓懇談会を開催いたしましたのも以上の屯田兵精神に依つて貫かれた当時の生活を皆さん方の御元気な中に再び描き出して之を歴史に遺すと共に、時局下至誠奉公の道民手本として活用したいがためであります。」

 昭和18(1943)3月に発行された大政翼賛会北海道支部編 屯田兵座談会『開拓血涙史』でも、その「序」で大政翼賛会北海道支部事務局長阿部平三郎が次のように述べています。

『開拓血涙史』表紙 「『汝等の身命は上 天皇陛下に捧げ奉りしものにして自身の生命にあらざるなり故に苟くも自己の不養生より疾病を醸し又は不心得より罪を犯す等の事之れある可らず萬一之れあるときは不忠この上もなければ常に衛生に注意し言行を慎みて身命を大切にせざる可らず。』

 これ北海道開拓に際し、屯田兵員として之を懐中にせざるものなく、朝夕、再読、三思して確固たる不抜の精神を培養したる『屯田兵員及家族教令』の第二條の大文章である。

 教令の説くところ、實は兵農一如の信念であり、明治初頭、北邊の急なるとき北の防人として身を挺したる屯田兵の烈々たる氣魄は、大東亞戦下、國民の肺腑を突くの感あり、乃ち大東亞戦争完遂の精神的源泉をこの教令に仰ぎ、戦場精神の昂揚、戦争生活の實踐に當り、吾人に最高の倫理を與ふるものと信じ、茲に序を誌して一言述ぶる次第である。」

 この「序」に続いて『屯田兵員及家族教令』の全20条が同冊子に掲載されています。(ここでおかしいのが同事務局長は『家族教令』が屯田兵屋の壁面に貼られていた事実を知らなかったらしく、最初から冊子形態であったように「之を懐中に」云々と書いていることです。)

 以上のように『教令』は、天皇制を支える軍国主義の指導精神として活用されたのでした。

 前号で紹介した()榎本守恵氏も、『北海道開拓精神の形成』で次のように述べています。

 「日本ファシズムは大陸侵略に乗り出して満蒙開拓が課題に上り、北海道屯田兵の制度と精神とが、その好箇の模範例として宣伝された。続くは太平洋戦争耐乏生活の時代である。屯田兵に関する著述や兵村史は、多くこの時期に公刊されたが、そのほとんどが屯田兵定着率の問題にはふれずに、専ら滅私奉公・耐乏の兵農精神を強調した。けだし当然であろう。」

◇『屯田兵および家族教令』を現物で拝見

 この全道的な『教令』の再評価の動きに刺激されて、元屯田兵が保存していた『屯田兵および家族教令』を子孫に残す「家宝」として立派に表装した事例もあります。現在、北網圏北見文化センターに保存・展示されている寺西家の『屯田兵および家族教令』が、その一例です。

 この寺西家の表装された『屯田兵および家族教令』が保存状態良好で、当初筆者は同『教令』が昭和12年の再評価後に、記憶を頼りに書かれたものと推理したのですが、過日、湧別屯田の子孫である北見市民の方が持参された『屯田兵および家族教令』の現物を拝見して、自分の推理が間違いだったことを確認しました。その時拝見した物は、紙面が真っ黒に煤け、劣化してバラバラに千切れた状態で、どう見ても昭和10年代に印刷されたものではありませんでした。縁には画然と木枠か何かで壁に張った跡があり、全く『百聞は一見にしかず』でした。

◇『兵員及家族教令』の現物はどこに?

 当市文化財課には、カタ仮名で書かれた明治31(1898)5月の『兵員及家族教令』の現物はありません。そこで『湧別兵村誌』に掲載されているのですから、湧別屯田に現物があるのではないかと、湧別町ふるさと館JRYに問合せましたが、ここにもありませんでした。そのかわり、当市と全く同じ明治30年5月の平仮名書きの『屯田兵および家族教令』のコピーが送られてきました。

 剣淵町教育課社会教育グループの方から提供のあった『教令』のコピーも平仮名書きの『屯田兵および家族教令』で、末尾には「明治丗一年四月  屯田歩兵第三大隊」とありましたから、平仮名書きの『屯田兵および家族教令』は、北見屯田だけの特殊なものではないのです。

 剣淵町以外にも、平民屯田の入地した道内各地の市町教育委員会・博物館等に対して『教令』の保存について照会したのですが、今のところカタ仮名書きの『兵員及家族教令』の現物を保存しているところはありませんでした。

◇『屯田兵および家族教令』と『兵員及家族教令』との違いは?

 道内各地に照会しても保存された『兵員及家族教令』の現物が出てこないとなると、これは屯田兵の各戸に配布されたものではないように思われてきました。

 漢文の素養で書かれた『兵員及家族教令』は士族出身者には読解できても、小学校も出たかどうかも分からない平民出身の屯田兵には読むのも困難なものだったでしょう。

 以下は全くの仮説ですが、カタ仮名書きの『兵員及家族教令』は将校用のテキストで、一般屯田兵には読みやすい平仮名書きで、字句を読み替えた振り仮名付きの『屯田兵および家族教令』が配布されたのではないでしょうか。なお、将校用のテキストが冊子だった可能性はあります。

 大正10(1921)1月に発行された『湧別兵村誌』は、その当時「札幌区南一条西十丁目甲第十七号」に住んでいた「元北湧小学校長 高橋 斌」を嘱託にして編纂されたものですが、高橋は現地湧別の一般屯田兵に配布された平仮名書きの『屯田兵および家族教令』ではなく、入手先は不明ですが、漢文調の『兵員及家族教令』を採用して掲載したのではないでしょうか。

 それが大正15(1926)12月発行の『野付牛町誌』にも掲載され、回りまわって昭和12(1937)には石黒長官に注目され、北海道の国民精神総動員運動用テキストとして北海道廰『屯田兵員及家族教令』が全道に配布されることになったのでしょう。
◇確認作業の重要性を痛感

 『北見市史』上巻にある『屯田兵および家族教令』の誤字・脱字の訂正から始まって、各種資料を集める中で色々と疑問が生じてきて、ついに6回の連載になりました。その過程で北見屯田の『兵員及家族教令』が昭和12年に道庁の国民精神総動員運動の手本になったことも知ることができました。当時の人には周知の事実でも、時間が経つに連れ、記憶も薄れて曖昧になり、昭和12年のことが昭和13年になったりもします。既存のどのような資料・情報でも鵜呑みにせず、それが事実か、正確か確認する作業が重要であることを今回も痛感した次第です。

 筆を置く前に、この連載に際して今回もご協力頂いた北海道立文書館はじめ、各地の市・町教育委員会、博物館の方々に心よりお礼申しあげます。ありがとうございました。(完)

《分庁舎だより》☆3月11日に起きた激烈な東日本大震災と深刻な福島第1原発事故の影響か、この一年間は短いような、長いような、混乱した感じで過ごしました。被災地はまだまだ復興にはほど遠いと思われますが、来年が少しでも良い年になりますように祈念いたしております。

 

NO.230

よくある質問のページへ

教育・文化

教育委員会

スポーツ

青少年

生涯学習

学校教育

文化施設

姉妹友好都市・国際交流

歴史・風土

講座・催し

図書館