ヌプンケシ125号

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市史編さんニュースN0.125
タイトルヌプンケシ
平成18年8月1日発行

◎常呂川の流れから(7)

 

◇ムイコツ子(ムイコツネ)
 5月16日、夜明けと共に松浦武四郎は四人のアイヌを連れて、ノヤサンヲマナイを出発しました。そして十丁ほどでムイコツ子に達しました。人が住んでいた様子は書かれていません。
 この場所の名の意味は「少し低き」ということで、昔、義経がここの土を取って、キナチヤウシの下になるチウラホイ(チルラトイ)という処に城(チャシ)を築いたという。ムイコツ子とは「低き地面」のことを言う、としています。
ムイコツネ 鈴木三郎先生は「永田地名解によると、モイコツネとあり、湾の凹みというという意味で、註して生顔常村と称すとある。この両者の解釈は相違しているが場所は同一とみて良いと考える」と『北見市史』上巻に記しています。ここにある「永田地名解」とは明治時代の教育者で歴史家であった永田方正(1844~1911)が、北海道庁に勤務していた時に編集した『北海道蝦夷語地名解』の通称で、アイヌ地名研究には欠かせない参考書になっています。
 「ムイコツネ(モイコツ子)の所在についてはこれも確認が難しく、幾つかの地点が考えられる。ただこの場合、現北見市の東十号から東七号間にあることは間違いないようであるから詮索の範囲は余り広くはない。/屯田兵出身の池田七郎が書き残した『北見の黎明』には、入地当時見聞した事実として永田方正の解説する、湾の凹みに相当するのは東八号から東十号であり、この旧河に沿って、竪穴が七、八箇が残されていること、東十号の屯田兵吉田常次郎給与地内に墓地跡があるので、生顔常村の発祥となったコタンはこの辺であろう。」としています。
生顔常村◇生顔常村

 明治30年(一八九七)に、常呂から分離して「野付牛村・生顔常村」が共同の戸長役場を持つ行政区域としてされたわけですが、このとき野付牛村は「端野・北見自治区」とほぼ同じで、生顔常村は「留辺蘂・訓子府・置戸」を包含する広大な区域となりました。その後、明治42年(1909)生顔常村は野付牛村に統合されました。大正4年には、野付牛村から旧生顔常村地区の置戸村(訓子府の地域を含む)と武華村(現在の留辺蘂地区)が分村しました。こうして「生顔常村」は、松浦武四郎が探検した地点の「ムイコツネ」と全く関係のないものになりました。何故、こうなったのでしょうか。 
 鈴木先生も説明する自信がなかったのか、野付牛の長老で歴史を書きのこした池田七郎の説を次のように紹介しています。「この経過について、池田七郎は、現留辺蘂町の行政区域内にはムイコツネと称する地名が無く且つそれに該当する処も見出されぬことから、元来、北見市の東七号から東十号間にあったモイコツネの所在を、行政区画決定に当って、充分その根拠を調べずに、現留辺蘂町の行政区域にこの名称を付したものだと述べている。」
 つまり、明治5年(1872)、戸籍編製のためにアイヌコタンを根拠に「村」を設定したわけで、その時点では行政区域は曖昧模糊としていたのが、いざ戸長役場を設けて行政区域を具体的に決める段になって、行政の都合で実際あった地点から切り離して、生顔常(ムエカオツネ)村の名前だけが一人歩きさせられた、ということのようです。
 なお、武華村の「ムカ」は、この生顔常村の「ムエカホツネ」からとって漢字を当てたようだと鈴木三郎先生は『歴史の散歩道』で述べています。
◇カヒサツリウカ
 20丁ほどいくと、カヒサツリウカという場所がありました。両岸に樹木のある小川の地形でしたが、水はありませんでした。カヒとは川のこと、サツとはサツテのつまった言葉で乾いたということで、リウカとは橋のことで、その場所の所々が川になっているので橋があることから、この地名がついたそうだ、と武四郎は記しています。
カヒサツリウカ この場所について鈴木先生は次のように書いています。 「永田方正の地名解には、カプ(ピ)イサムリウカとあり、カプは皮、イサムはない、リウカは橋で、木皮のない橋と解釈しているが、これと松浦の云う橋と同じものかどうか。ここ迄に二つの川が見付からぬ点で、おそらく同一の川を指すのであろう。とすると、名称と解釈が相違するのはどうしたことであろうか。地名解の解釈も意味不明であるが、松浦の場合一種の枯川のような解釈である。地名解のカプ(ピ)イサムリカの名称は、明治以降作図された地図に記載されており、それは後に和名で小石川と呼ばれているが、今、この小石川と松浦のカヒサツリウカが同一の川とすると、処々乾いた一種の枯川と云うことは解釈に苦しむ。カプ(ピ)イサムリウカは、延長は短い小川で、北見市昭和区に発して東陵町の沢を流れ、やがて野付牛公園を貫流して公園町に入る。ここは明治末期から大正期にかけて殷盛を極めた丸玉鈴木商工会社の軸木工場があり、流れはその敷地内で幾つかの池を形成し、その一つは工場の貯木池として利用されていた。流れは更に南流して常呂川の一枝川に注いでいる。この小川は細流であるが昔から水がたえず流れていたのに枯川の名で呼ばれたのは、別の川を指したのではないかとも考えられるが、次のムニニンリウカ川以外近接した処に小川が見当らぬ現地の状況から、同一の川と断定せざるを得ない。従って、アイヌの呼称について、その受取り方の相違について究明することが必要である。」
 ここでもアイヌ地名の解釈に、問題があることを鈴木先生も認めています。過去の失われた言葉をどう解釈するのか、一種の謎解きですね。アイヌ語地名マニアみたいな人が結構たくさんいるのも、謎解きの面白さがあるからなのでしょうね。アイヌ語もそうですが、何故その川が「小石川」となったのか、筆者は知りません。知っている人がいたら教えてください。(続く)

《中庭だより》
☆先日、中央図書館へ行って終戦後の新聞を朝から一日見てきました。劣化した新聞なので慎重に取扱う必要がありましたが、筆者の知らなかった情報が多数あり,苦労するだけの十分な価値がありました。もっとこの貴重な宝の山を大切にして、掘り起こす必要があるようです。

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