ヌプンケシ149号

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市史編さんニュースN0.149
タイトルヌプンケシ
平成20年8月15日発行

◎馬場酒造店のこと(4)

永井柳太郎代議士を出迎えての記念写真 

◇永井柳太郎代議士
 右の写真は駅構内で戦前の大物代議士、永井柳太郎を撮らえた写真です。また、これとは別に大判の写真で駅頭に同代議士を団体で出迎えての記念写真もありました。『北見市史』 年表編によれば「1927年 昭和2年7.15 永井柳太郎代議士、本覚寺で『困難に直面して』の題で講演、小池仁郎代議士の応援を兼ねたもの」とありますから、この写真はこの講演会の前に撮影されたものでしょう。説明にある小池仁郎とは、根室出身で大正4年(1915)初当選以来活躍していた憲政会系代議士でした。
 さて、その永井柳太郎ですが、講談社『日本人名大辞典』には次のように紹介されています。
「(1881-1944)大正-昭和前期の政治家。明治14年4月16日生れ。永井道雄の父。明治42年母校早大の教授となり、大隈重信の雑誌『新日本』の主筆をかねた。大正9年衆議院議員(当選8回)。民政党幹事長、斉藤内閣の拓務相、第1次近衛内閣の逓信相などをつとめた。昭和18年大日本育英会初代会長。昭和19年12月4日死去。石川県出身。著作に『殖民言論』など。」
◇普通選挙法
 何故そんな大物の永井代議士が野付牛町にやってきたか、というと大正14年(1925)3月に衆議院議員選挙法の改正法、いわゆる普通選挙法(普選法)が成立したためでした。
 この普選法では選挙権に付されていた「直接税三円以上」という制限が撤廃され、「貧困に因り生活の為公私の救助、扶助を受くる者」、「一定の住居を有せさる」季節的に移動する者を除いて、25歳以上の男性なら誰でも選挙権を持つことになりました。(しかし、女性が選挙権を得るのは戦後になってからです。また、普選法による左翼活動の活発化を危惧した政府は大正14年=1925年4月、左翼弾圧を目的とした「治安維持法」を公布しました。)
 その結果、有権者は従来の約4倍、1,200万人となり、北海道では大正13年12月20日現在の55,700人から456,319人へと8倍以上も増加しました。新たな票田の出現です。
 明治33年(1900)伊藤博文を総裁に結党されて以来、中心政党であった立憲政友会に対抗して、昭和2年(1927)6月1日に憲政会と政友本党が合同して立憲民政党(通称・民政党)が結党され、その地方組織の梃入れと総選挙準備のために永井が野付牛にやってきたのでしょう。
 先に引用した『北見市史』年表編にも同年7月のこととして「このころ、地方で政党活動盛んとなり野付牛政友倶楽部が鉄道用地交換・常呂川治水完成・区裁判所誘致・郵便局昇格・墓地移転・産業立町・水道敷設などを掲げる。これに対抗し野付牛民政倶楽部も組織化をすすめる。」とありますとおり、いわゆる戦前での短い「政党政治の時代」が到来したのでした。
 大正デモクラシーで「憲政の常道」が叫ばれていたのですが、それは「藩閥政治や特権勢力による政権専有を排して、政権交代は民意を反映する政党内閣によってなされるべきであり、内閣が総辞職した場合、衆議院の第二党である野党に政権を移すのが立憲政治の常道である」という主張でした。この普選法によって、それが可能になり政党政治の時代となったのです。
 昭和3年(1928)2月20日、普選法による第16回総選挙が実施され、全道の有権者は456,464人で、道東は第5区となり定員は4名でした。当選は木下成太郎(14,116票・政友会)、三井徳宝(13,496票・政友会)、小池仁郎(9,709票・民政党)、前田政八(8,600票・民政党)でした。全道では政友会10、民政党9、中立1となりました。
◇模擬国会
模擬国会写真 右の写真は、現在の『大丸』(2条西2丁目)のところにあった北見劇場での模擬国会の様子です。質問者か、答弁者か不明ですが、中央に立っているのが、昌久氏です。(多分、商工
大臣の所が空席ですから、商工大臣としての答弁でしょう。)
 下の写真は「模擬国会」を開催後の記念写真のようです。昌久氏の他に、中島権太郎(前列右から3番目)、河西貴一(前列右から6番目)、伊谷半次郎(前列左から3人目)等、当時の有力者の姿が多数確認できます。
(「男女七歳にして席を同じうせず」なのか、劇場の升席が男席と女席とに仕切られているのが、写真今見ると面白いですね。)
 この2枚の写真が写された年は不明ですが、昭和初期に野付牛民政倶楽部の主催で町民に対する政治活動の宣伝啓蒙の一環として取り組まれたものと見られます。
 昭和9年(1934)発行の名士録『北見大観』の馬場昌久氏の欄には「野付牛民政倶楽部幹事長」とありますから、政治活動にも昌久氏は熱心であったのでしょう。昌久氏が、いつからいつまで幹事長であったかは、何も資料がありませんでした。実際のところ、当市では政党関係のまとまった研究がなく、資料の収集と調査が市史編さんの大きな課題の一つになっています。ですから、こうして寄贈写真によって、北見での「政党政治の時代」の一面を確認できたことは非常にうれしいことです。(続く)

《中庭だより》☆先日、ピアソン館関係者より「当館が敗戦直後、米軍に接収された事実はないか?」との照会がありました。当市には何の情報もなく、道立文書館に問合せしたのですが該当史料はないというので、ついには防衛省防衛研究所史料閲覧室にも調査をお願いしたのですが、ここにも該当史料はないとの回答でした。こうなると残念ながら全くお手上げです。
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