ヌプンケシ218号

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市史編さんニュースN0.218

 

タイトル ヌプンケシ

 

平成23年7月1日発行

 

 


 

◎『子なさせ地蔵』とお産婆さん(13)

◇戦中・戦後も多忙なお産婆さん
 『お産革命』には、次の山梨県のお産婆さんの思い出話が記されています。「彼女の全盛期も、太平洋戦争から戦後のベビー・ブーム期であった。東京の空襲が激しくなると、『妊婦疎開』がどんどん入り込むようになり、偉い将校さんたちの奥さんを何人も世話した。四方津駅から、彼女のとりあげた子どもらが出征するようになると、必ず日の丸を持って見送りにでかけた。『銃後はおらが守ってやる、アメ公の爆弾なんかで死ぬもんか、がんばってこいよ、って言ったもんよ。あのころの気概、あの根性、われながら、ほれぼれするほどだったねえ・・・・・・』」
 お産婆さんは戦時下では『産めよ殖やせよ』の国策、産児報国に協力し、戦後はベビー・ブームで多忙を極めたようです。筆者などは昭和23年(1948)生れで、ベビー・ブームの申し子のようなもので、お産婆さんに取り上げてもらいました。私の記憶でも、昭和30年ごろまでは在宅でお産婆さんの世話になるのは普通のことで、お産婆さんの働く姿も見ています。ですから、その頃の子どもたちは、親しみと幾分の尊敬の念を込めて「お産婆さん」と呼んでいました。
◇昭和25年(1950)版『北見商工名鑑』には
 戦後の北見自治区でのお産婆さんの資料は、昭和25年1月発行の昭和25年版『北見商工名鑑』しか見当たりません。そこには、次の助産婦さん13名の氏名が記載されています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 営業種目 営業所の所在  経営者氏名 創業年 電話番号
 助産婦   上仁頃       添田久子    昭一八

   同     上常呂       加藤喜代    昭二三

   同     同          太田さかゑ   昭二二

   同    下仁頃二区    山崎ひで    昭一一  下仁頃一〇
   同    北三條西一丁目 品田澄子   昭一八   二五九
   同     北四條東二丁目 小浜静子   昭二〇   一〇二
   同     北四條西四丁目 橋本イワ    昭 五   五九九
   同    北六條西二丁目 小野あい   昭一八   四八二
   同    北五條西四丁目 浅野みさを  昭 二    二二三
   同    北三條東四丁目 番場公子   大 元    七六二
   同    番場町        鈴木トミ子  昭 八

   同    北一條東四丁目  加藤キヨ   大 五   六六五
   同    大通西七丁目   赤野とみよ  大 六 

 

◇浅野みさをさん
 筆者の実姉に「私を取り上げたお産婆さんは誰か」訊ねてみましたら、「死んだお母さんに聞かなきゃわからんけど、浅野さんでないかい。」という返事でした。その浅野みさをさんは有名なお産婆さんで、昭和46年(1971)12月発行の『北見の今昔』に次の略歴があります。
みさをさん 「明治40年3月21日父竹次郎(竹治郎が正しい。―引用者)、母レイ(れいが正しい。―引用者)の四女として岐阜県大垣市に生まれ、同42年渡道、その年の秋、留辺蘂町に来住した。大正12年同町高等小学校卒業後、当時の野付牛町産婦人科吉田病院(院長吉田角次)に見習い看護婦として勤めるようになった。同14年19歳の時、助産婦としての免許を取得、同病院内で独立し、同時に婦長として20年間勤めたが、同18年(昭和18年と思われる。―引用者)同病院を退職、のち自宅分免(分娩か?-引用者)として活躍、同30年浅野助産所を開業、同40年には現在の産院を新築し今日に至っている。今まで取り上げた赤ちゃんの数は13,000人以上と言われ、北見助産婦会の元老であり、北見助産婦会々長を永年に亘り勤めている。なお、ひとりっ子の孝雄は昭和33年10月北見北斗高校を経て東京大学医学部を卒業、茨城県々立友部中央病院の外科医として勤めていたが、この2月脳外科研究のため米国へ留学した。」(左上の写真も『北見の今昔』より)
 浅野さんは明治40年(1907)3月21日生れで、19歳で産婆免許を取得し、前ページ一覧表の創業年欄に昭和2年(1927)とありますから、20歳になって正式に開業したということでしょう。浅野助産所は北5条西4丁目の現在の「ソシアルプラザビル」辺りにありました。いつまで開いていたかを示す確かな資料はありませんが、市内地図などを見る限りでは昭和50年(1975)に閉業したものと思われます。その後のことは不明ですが、約半世紀にわたってお産婆さんとして活躍した浅野さんは、平成6年(1994)7月16日に逝去されました。享年87歳でした。
◇新聞記事の中で
 昭和46年(1971)2月9日付、北海道新聞の管内版特集『おんなの年輪』1に「 “母の喜び”しみじみ/北見助産婦の草分け」「一万人のうぶ声/熊切一枝さん(六三)」の見出しで、次の記事を見つけました。おんなの年輪
 「ざっと一万人の赤ちゃんを取り上げた。助産婦としては北見の草分け的存在。昭和二年、東京で資格を取ったあと病院を転々。二十四年、北七西四に開設された市立助産所に二十年間勤めた“うぶ声人生”である。/五つ子に立ち会う/いろいろと・・・・・・。『えーえー、いまの小林病院のところに昔、吉田病院がありましてね、そこで“見習い”をしているころ、五つ子の出産に立ち会いました。多胎妊娠というんですが・・・』。ほう。で、赤ちゃんは?『男二人、女三人。キャッ、キャッと泣いて、すぐダメになりました』。 ほかにも、『えー、助産婦を始めてから、ふた子でね、 一人は生れたのですが、もう一人がどうしても出ない。結局、二日後に生れたんですが市の戸籍係に書類を持っていったら、そんなバカな話があるか、としかられました。しょうがないですよねエ』。珍しい?『外国では三週間後に生れたケースもある、とあとで知りました』。/この人、助産婦ゆえの母の喜びを三度味わった。ヨメに行った長女と二女が、大きな病院のある都会にいながら『母さんのところがいい』と遠路帰ってきて、三人の孫が“おばあちゃん”の手でうぶ声をあげた。『うれしかったわねエ』―。」
 この記事は助産婦で、戦争未亡人であった熊切(くまぎり)一枝さんを取材したものでしたが、筆者が注目したのは、昭和24年(1949)に北7条西4丁目に開設されたという「市立助産院」でした。この市立の施設については、この記事を読むまで筆者は全然知りませんでした。(続く)

 

《中庭だより》☆6月20日、インターネットで野付牛写真屋の草分け=吉田登世(とせ)氏を紹介した当紙191~193号を見た、札幌在住のお孫さんからお電話を頂きました。登世氏は、兄の登一氏が死後、網走の写真館を引き継いだそうです。詳細は後日報告いたします。お楽しみに。

 

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