ヌプンケシ243号

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市史編さんニュース NO.243

タイトル ヌプンケシ

平成24年7月15日発行


◎北見の米づくりと三輪光儀(5)

◇『上湧別町史』で確認された米試作の中隊命令

 当市には明治33(1900)に出されたという米試作の中隊命令に関する資料がないので、湧別町ふるさと館JRYの方に問合せしたところ、ありがたいことに昭和43(1968)3月発行の『上湧別町史』にある該当部分のコピーが送られてきました。

 それによると第四中隊第一給養班長、樋口幸吉氏の日記に以下の記述があるそうです。

 明治33年「三月二十日 火(別文略)水田ノ試作ノ上結果報告ス、種ハ各中隊三斗宛アル由/四月十四日 土 曇(別文略)水田試作ハ川辺ニ於テ共同ヲ以テス/四月二十四日 火 晴 稲作ノ見込アル者ハ明朝迄ニ申出ズベシ/五月八日 扶助米精算ス、籾種分与ス、秦野・穴田・諸岡・宍戸」この年の試作結果は、不明とのことです。

 翌明治34年「六月十五日調/ 稲試作者 秦野又三郎/浸水 四月十四日(籾蒔一坪七十株位)桶ニ浸ス/播種 五月一日 発芽 五月十五日/目下 長サ二寸位ニテ稍可成/ 稲試作者 阿部四郎/浸水 四月十六日 一坪ノ播種量四合桶ニ浸ス/播種 五月二日 腐敗ノ為メカ発芽セズ」

  『上湧別町史』には、この日記以外に「北兵村二区田中日吉の談」として「明治三十三年に初めて水田の試作を札フミの給与地で行ったが、不作でした。翌三十四年には、一反三畝の水田から籾一石二斗の収穫を得て、そのうち一石を中隊に十円で売った。三十五年も作ったが、大凶作で一粒も取れず、水田を止めてしまった。」ことが紹介されています。

 これで湧別屯田では明治3334年と中隊命令で米の試作があったことが明確になりました。

◇北見屯田に稲作指導にきた教師2名は当麻屯田兵

 大正10(1921)1月発行の『湧別兵村誌』には、「本道各地稲作ノ良績ニ顧ミ北見ニ於テモ其成功疑ナキヲ信ジ兵村開設以来各所ニ試作ヲナシ 其結果ノ良好ナルヲ認メ 時ノ大隊長三輪少佐ハ先ヅ一大灌漑溝ヲ開削シ後兵村全般ニ渉リ稲作ヲ奨励セント計画セラレ之ヲ各兵村ニ通達シテ其実行ヲ促セリ」とあります。湧別屯田では明治34(1901)冬に総延長6里(24km)の灌漑溝の工事に総力をあげ翌年春には完成させました。かくして「明治三十五年春上川郡当麻兵村ヨリ教師トシテ大柿千代太郎ヲ用聘シ大ニ水田稲作ノ試験ヲナセシガ不幸ニシテ其結果ハ不良ニ終ハリ(此年概シテ気温低ク本道到ル所ノ稲作ハ不成績ナリ)」とあります。

 前に紹介した『北見の米』にある「相内村」の〈米作ノ沿革〉では「明治三十一年屯田兵ノ第一区第二区第三区ノ各般(班?―引用者)ニ灌漑溝掘削シ三十四年ニハ屯田兵農業教師近藤幸五郎水稲指導ニ来村セシモ成績挙ラス」とあり、個人では大和田藤次郎氏と鬼海嘉四郎氏が共に永山から赤毛を取寄せて、明治32(1899)に試作したとあります。この引用にある明治31年の相内における灌漑溝掘削は、三輪大隊長公認であったと考えて間違いないでしょう。引用に登場する屯田兵農業教師近藤幸五郎も、三輪氏が中隊長であった当麻西兵村の屯田兵です。

 これら、当麻から米作指導にきた両人共に三輪氏の人脈で呼ばれてきたと思われます。 

 端野町にも「端野町水田発祥の地」碑が三区屯田生活センターの裏手にあり、これは明治31年に三区屯田兵の垣下長松が水稲試作したのを顕彰して、昭和61(1986)建立されたものです。

◇北見屯田に明治31(1898)赴任当初から稲作試行奨励と推論

 大正5年(1916)6月発行『北見國中野付牛兵村屯田記念帖』にも「明治三十年の交より本道稲作の有望を認められ水田の開発に着手する者ようやく多きを致せり渡島國、後志國、石狩國最も旺んにして当時吾兵村に於ても将来稲作の極めて有望なるべきを信じ移住以来年々試作をなしたるに結果の頗る良好なる者ありたり」とありますから、こうしたことを背景に三輪氏が明治31年に北見屯田へ大隊長として赴任当初から屯田兵に対して稲作試行を奨励していた、と見て間違いないでしょう。

 また、前掲『湧別兵村史』に「北見屯田兵ハ一種ノ特長ヲ有シ 本道各隊ニ比シテ些ノ遜色ナキニ至レリ 殊ニ時ノ大隊長ハ兵員ト家族トノ責務ヲ明ニシ 兵員ハ全ク軍務ニ服シ 家族ハ専ラ開墾耕稼ニ従事シ 事実ニ於テ兵ト農トヲ区別シ」たとあり、これから発想して三輪大隊長は軍務を全うする限りは現役兵と家族で米づくりしても問題なしとしたと筆者は推論しています。

◇『北見農業試験場70年のあゆみ』米づくり関係の出典は?

 さて、この特集を執筆するきっかけになったのは『北見農業試験場70年のあゆみ』の米作りに関する一連の記述でした。

 これまで筆者はその出典が明らかでないと書いてきましたが、今回の湧別町ふるさと館JRYのご協力で、昭和43(1968)3月発行の『上湧別町史』が多分そうであろうことがわかりました。『上湧別町史』の関係記述は、昭和46(1971)3月発行の名著『網走市史』下巻にも引用されています。(なお、蛇足ながら明治「三十三年、三輪光儀が大隊長として着任」と間違いも『網走市史』下巻にしっかり引用されています。)

 ですから、昭和54(1979)3月発行の『北見農業試験場70年のあゆみ』の執筆者が『上湧別町史』か、『網走市史』下巻のいずれかを参考にしたことは時系列的に間違いありません。

 それに対して昭和56(1981)12月発行『北見市史』上巻で屯田関係を執筆された鈴木三郎先生は、これら『上湧別町史』、『網走市史』下巻の記述を見落としていたことになります。

◇『網走市史』下巻から補足

 それでは補足として『網走市史』下巻から、関係した部分を次に引用しておきましょう。

 網走で「試作の事績がやや明らかになるのは、明治二十七年からである。この年、網走川が湖水に注ぐレプンシリで、吉田甚松が、郷里福井県から種子をとりよせ、一反歩ほど試作した。吉田は、明治二十二年移住して、のち網走分監に奉職したが二十六年退職、長谷川某の土地を譲りうけてレプンシリで農耕を開始したのである。しかし、福井種はほとんど結実しなかった。翌二十八年には網走郡役所から種子を下付されたが時期おくれのため不成功、二十九年には札幌の親戚藪惣七から種子の送付をうけ、同時に岩手種をも試みたが、両種とも相当の出来ばえであった、と同年吉田を訪問した河野常吉がその直話を伝えている(明治二十九年巡回手帳)。『北海道殖民状況報文・北見国』に、〈網走湖畔ニ数戸ノ農家アリ、其内一戸ハ水田ヲ試作シ、蚕ヲ試養シ、相応ノ収穫アリ。〉とあるのは、すなわち吉田のことを指しているのである。」

 「なお、吉田甚松が、二十八年に郡役所から種子の下付をうけたのは、『明治二十八年、上白石稲作試験場ニ於テ収穫セルモノヲ広ク管内ヘ配布スルト共ニ、之ガ適否ヲ試験スルノ必要ヲ認メ、本年始メテ嘱託試験ヲ施行ス。桧山三名・釧路二名・増毛二名・岩内二名・網走郡役所部内ニ一名ノ農事篤志家ヲ選抜シ、各一反歩ヅツノ試作ヲナセリ。其結果見ルベキモノ少ナカラズ。』〔北海道庁統計綜覧付録〕とあるのに該当するのであろう。」

 この記述で、明治28(1895)に網走で嘱託試験があったことが明らかになりました。(続く)

 

◎資料提供のお願い 4月に北見市史編集委員会が発足して、市史発行に向け毎月会議が開催されていますが、先日は資料収集が話題になり、皆様のご家庭に眠っている写真類、文書、地図等の資料提供をお願いすることになりました。何かありましたら、当室へぜひご連絡ください。

 

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