ヌプンケシ14号

北見市企画部(市史編さん担当) 〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-23-7111(代)


市史編さんニュース NO.14
タイトルヌプンケシ
平成13年12月15日発行

 12月4日、前回市史編集委員長鈴木三郎氏の奥様、鈴木正子様から鈴木先生の思い出を記した原稿をいただきましたので、ここにご紹介いたします。なお、後日、この玉稿を含む鈴木先生のお人柄と業績を顕賞する冊子発行を計画して見たいと思っております。

◎主人のこと画像本とノート
主人は東京生れの父=辰蔵(明治元年生)と石川県松波生れの母=ゆい(明治12年生) の次男として、滝川に生まれました。父、辰蔵は東京で13歳の時から徳田与三郎さんが経営する角牙工作問屋に入り仕事をしていました。その後、明治18年に徳田与三郎さんが函館にきましたので、父も渡道。明治28年より与三郎さんが経営する美唄炭砿に参事として一生係わり、貢献しました。長男は早く亡くなり、次男である主人は与三郎さんから名前をもらった由。その後、母は実家のある野付牛(現北見市)に移り、子育てに専念し、父は今でいう単身赴任で、仕事の合間に時折、野付牛に帰る、そんな暮らしのようでした。  
画像鈴木三郎先生 主人が幼少時の思い出として、姉達は皆嫁ぎ、近所の子ども達とよく遊んでいて、冬になるとソリで二人乗りをし、家の前(二条通り東三十一番地)から大通りまで滑り降り、馬ソリをひく馬の下へも ぐりこんだこともあったとか、また近所に住んでいる新聞配達の小 父さんがいて、毎日何をおかずで御飯を食べているのかなーと思い、 友達と窓からのぞいて見たら、焼きノリばかりで食べていたとか、 そんなことも語っていました。
 また旧制中学校へ行く時には、友達は放課後、教室に残って何か勉強しているようなので、何のためにしているんだろうと思っていたら、先生が「お前は中学に行かないのか」といわれ、家へ帰って母に聞いたら「行きたかったら行けば良い」といわれ、それから皆んなと勉強をしたそうです。試験の一日目は0点、二日目は 100点だったので、かろうじて野付牛中学に入学できたとのことでした。 
 昭和3年、中学を卒業すると代用教員として、中湧別の小学校に赴任、そのとき担任した生徒の中に、田丸さんのお母様や、同僚の羽田先生の奥様、他に私が知っている方が二人おられた。或る人は家に帰って「今度、兄(あん)ちゃん先生がきたから嫌やだ」といったそうです。その後、陸別小、幌呂小と転任し、昭和7年旭川師範の専攻科へ入学、同8年4月白糠小学校へ赴任。
同9年には端野小学校へ転任し、4年間教鞭を取りました。その間に、同11年12月私と結婚、翌12年12月に母が他界と人生の大きな節目がありました。 
 昭和13年、北見西小学校へ転任し、妹、弟と4人、番場町に暮し、父はその時々に美唄から帰って来ておりました。主人は勤めから帰ると父へ「只今帰りました」と挨拶をし、母の仏前にお参りする毎日なので、何時も感心させられました。
 また自然への憧憬もあり、昭和15年頃には登山にも関心があって、富士山登頂を行ったり、日本アルプスの槍ヶ岳に登ったときには、山の途中で上から流れてくる一筋の水を腹ばいになって手ですくって飲んだ時の、水のあまかったことが忘れられないとか、下山して食堂に入りお弁当を二つ注文したら、店の人が「お客さん一人で食べるんですか」とびっくりしていたのに、ぺろりと二つ食べて店をでたとか、楽しい思い出があったようです。 
 昭和16年、釧路市立高女へ転任、同年7月には父が75歳で他界しました。
 昭和17年のお正月休みに地歴の検定試験を受けに上京途中、青森で東京の親戚へのお土産にりんごを買いたいと思って商店街へいったところ、朝早かったのでほとんどの店が閉っていたそうで、一軒だけ開いている店に入り、「りんごをください」と云ったら、ズーズー弁で「9時(クズ)でないと売らない」と云われたのに、「屑(くず)でもいいから」と売ってもらったそうです。また、一番厄介になった東京のおばあさんには「田舎の人は御飯をたくさん食べるのでしょう」と進められ、小食な主人は困ったと申しておりました。
 昭和18年には教育召集があり、旭川へ入隊。砲兵だったので大砲を打つ訓練の際、膝に骨まで達する程の大怪我をしたそうですが、戦友達は「軍医のところへ行ったら、痛い思いをするから行くな」と云い、ありあわせの布で縛って処置してくれたそうです。他の兵隊さん達はおなかがすくので、畑のトマトを取って食べたり、食事の時は待ってましたとばかり、御飯を取りにいったそうですが、主人は胃腸があまり丈夫でなかったので、食べては下痢、食べては下痢と、下痢が続き、戦友が「鈴木さんは死ぬんでないだろうか」と心配してくれたそうです。主人は魚もあまり好きではなかったので、魚の姿がわからないくらい煮てあったので、食べられて助かったそうです。戦友に頼まれて、ハガキや手紙の代筆をしたそうです。除隊の時には、地元の戦友がおにぎりをたくさん作ってきて「持って行きなさい」と汽車まで見送りをしてくれたとの事、本当にありがたい事でした。
 昭和20年4月には、釧路市立高女の生徒を引率して、津別の丸玉木工場へ勤労奉仕に行き、木製飛行機の材料作りをしましたが、その8月終戦となり釧路へ帰りました。
 昭和21年9月北見高女へ転任、この時期は戦後の混乱期で、新学制による男女共学の新しい学校づくりで、諸先生方と大変な苦労があったようです。
 柏陽高校時代には、オートバイの運転や車への関心も強く、車の運転を友人から教えてもらい、昭和32年自力で免許を取りました。昭和34、5年頃には、先生や生徒達にも教え、免許を取らせた事もあったのです。
 昭和45年3月退職後は、地元の歴史(屯田兵、北光社等)や自然観察(気象・気温の変化、地形、川、風穴等)に一層目を向け、自分の足と眼で確かめる事を日常としておりました。
また日頃の散歩の中で、急速に近代化していく道路や建築物にも目をみはらせていたようで
す。
 主人と行った、昭和53年6月の道北へのドライブにも印象深いものがあります。オホーツク海を北へ進み、北見枝幸で一泊。宗谷岬まで行き、稚内で一泊。稚咲内原生花園を通って日本海の見えるところまで行き、利尻富士を目の当たりにした時は、まさに絶景でした。またドライブ中の出来事として、車のキーを付けたままドアを閉めてしまい、私が小言を云うと「文句ばかり云ってないで、早く何か探してこい」と云われて、近くの家の人に頼んで針金をかり、少しあけてあった窓から、かろうじてドアをあけられた時にはホットしたことなど、思い出します。
 そんな中で市史編纂や広報きたみへ参画させて頂いたのは、光栄な事だったと思います。晩年は糖尿病もあり、眼の手術も思うにまかせず、昭和56年1月、片方を失明するという事態となり、物書きや近郊への調査、運転もままならず、不満の日々であったと思います。昭和62年7月頃より体調の不調をうったえ、8月3日より入院治療しましたが、はかばかしくなく、同年11月9日、満78歳で他界いたしました。 (鈴 木 正 子 記)画像りんご

 《中庭だより》 画像ろうそくのあかり
☆11月30日、北星学園女子短大の谷暎子教授から、国立国会図書館憲政資料室より当市のために取り寄せた、プランゲ文庫所蔵の『北見文撰』創刊号(昭和24年3月、北見市教員組合文藝部発行)のコピーを頂きました。北見では確認できない資料の内容を見ることができて、感激いたしました。戦後復興期に組合が文化活動に力を注いでいた実例であると共に、当時の占領軍の強大さも示していると思います。もし、読者の皆さんで、この関連資料をお持ちの方や経緯をご存じの方がいたら当方へご連絡ください。
☆12月3日、江別市の市史編さん室を視察してきました。江別市では『えべつ昭和史』を平成7年刊行され、現在『新江別市史』を編さんされています。お仕事を中断して応対頂いた藤倉次長、太田主幹両氏には大変お世話になりました。特に次長さんには、その土地どちの風土、特徴をいかに市史の中に反映していくか、公文書に記されていない市民の声と資料を掘り起こす事がどんなに困難で大切であるか、をお教え頂きました。

 

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