ヌプンケシ18号

北見市企画部(市史編さん担当) 〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-23-7111(代)


市史編さんニュース NO.18
タイトルヌプンケシ
平成14年2月15日発行

◎テレビ『日本人 はるかな旅』を見て
 2月3日、NHKのBS第2放送で、『日本人 はるかな旅』5回分が一挙放映されたのをあらためて見て、大変勉強になりました。今日は、将来、全面改訂される市史も考えて、そのおさらいをしてみたいと思います。

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☆人類誕生はアフリカで
 日本人の祖先がどこからきたのか、これまでは大きな謎でしたよね。
 考古学の研究も急速に進展し、人類の起源となる猿人は500万年前にアフリカ大陸で誕生し、その後、現在を生きるわれわれの直系の祖先であるホモサピエンス(新人)が20万年前に、赤道付近を南北に縦断する東アフリカ大地溝帯付近で誕生したそうです。そのホモサピエンスの一部が、10万年前頃に大地溝帯から旅立ち、死海地溝帯に一時とどまって、その後ヨーロッパやアジア各地に広がっていったとのことです。
 白人至上主義などの人種差別も、人類共通の祖先が「黒人種」であったことが分かれば、ナンセンスなことに思えます。
 そのホモサピエンス誕生以来、アフリカに暮らし続けたのが「アフリカ人」で、5〜6万年前に西に進路を取って欧州に住み着いたのが「ヨーロッパ人」、最も長い旅をしたのが「アジア人」だそうです。その旅の大きなルートは二つあって、一つは故郷アフリカと同じような温暖な気候を求めてインドネシアあたりの、かって存在したスンダランドまで南進した「南回廊」と、もう一つは極寒のシベリア平原を進んだ「北回廊」だそうです。「北回廊」でもっと遠くへいったのは、シベリアからベーリング海峡を越え、北米大陸を南下、最後は南米大陸の最南端まで到達したそうです。 画像
☆シベリア経由「北回廊」派が多数派 
 当然、日本人の祖先も、このルートで考えると、南方から北上してきた「南回廊」派とシベリアから南下してきた「北回廊」派にわかれる筈です。
 そのどちらが多いか、縄文人の遺伝子DNA分析で明らかにしたのが、佐賀医科大学の篠田謙一助教授だそうで、同氏は縄文人の歯の内部組織からDNAを抽出し、その配列を世界各国130あまりの民族のデータ500万件とつきあわせた結果、縄文人29体のうち、17体がシベリヤ平原に暮らす先住民族ブリヤート人と一致、そのほか1体が韓国人、また別の1体が台湾に住む中国人、タイ人が1体あったとのことです。それで、日本古代人のルーツの多くが、シベリアにあることが分かったと言うのです。
 そのシベリアに人類が進出したのは、約3万年前だったそうです。画像マンモス
かれらは、当時の夏、シベリアに広がった、「オープン・ウッドランド」と呼ばれる草原に棲息していた大型動物、マンモスやケサイを追って、やってきたそうです。 
☆マンモスハンター 
 計算によると、メスのマンモス1頭から得られる肉の量は1.8トン、1頭分あれば10人が何とか半年食うことができたそうです。そして、そのマンモスなど大型動物を狩るために、切れ味の鋭い細石刃を先につけた槍などを発明したそうです。シベリアで細石刃が使われるようになったのは、いまから2万1千年前のことで、日本で現在発見された最古の細石刃は千歳で見つかった約2万年前のものだそうです。大量に細石刃が発見されているのも、シベリアと日本だけだそうで、そこからも交流がうかがえます。シベリアに到達した人類は、極寒に耐える衣服、住居などたくさんの発明をしたようです。 
☆日本列島へ 画像ねこ
 氷河期といっても、今と同じような暖かい時期と寒い時期が交互にやってきたことが研究でわかったそうです。シベリア内陸部で零下80度まで気温がさがった大寒冷期は、2万年前から1万8千年前のことだったそうで、このために内陸部に「極地砂漠」が広がり、草原は消えてしまい、大型動物は草を求めて南下を始め、いまから2万年前、日本列島にマンモスがやってきました。それにつれて、われわれの祖先も南下してきたわけです。氷河期の最寒冷期、海面は現在より100メトール以上もさがり、間宮海峡、宗谷海峡も陸続きになって、陸づたいに北海道にわたることができたからです。津軽海峡も凍りつくことがあって、本州に渡ることが可能だったそうです。
 北網圏北見文化センター職員の話では、北見で最古の遺跡は1万8千年前の広郷8遺跡で、細石刃も発見されているそうで、上記の話と重なります。 
☆『原日本人』の生活変化
 ところが、化石を調査したところ、1万5千年前から1万年前頃までに、ナウマンゾウやバイソンといった大型動物は姿を消し、小型動物ばかりになったそうです。それは、氷河期が終わり、急激な温暖化で植生がかわり、草原が森になるなど、大型動物が棲息できない環境になり、それに加えて乱獲で、狩り尽くされたと見られます。そして、俊敏な小動物を狩るために、弓矢が使われるようになります。また、肉食にかえて、植物を食料にすることが生き残るためには、必然になったようです。植物の苦味、えぐ味を取り除き、柔らかくする為に、煮たきができる土器が発達し、それが縄文土器へと発展していったとのことです。人類は、激変する環境の中で、必死に生き残る努力をしていたんですね。

 《中庭だより》 画像リボンつき箱
☆以前より、伊東委員、渡辺委員から、北見商工会議所へ協力要請のため訪問するようにとのおすすめがありましたので、遅ればせながら1月25日、ご挨拶にいってきました。
田口専務理事さん、吉田事務局長さんとしばし歓談。お話では戦前の資料はほとんどないとのことでしたが、昭和2年発行の『野付牛商工案内』(複製)をお貸し願い、早速コピーさせて頂きました。今後とも、資料提供をよろしくお願いいたします。
☆1月29日、北見医師会史を作成している方から、相内村立国保診療所の開設年は昭和26年と分かっているが、月日が不明なので教えてほしいとの照会がありました。当方の手持ち資料には該当するものがなかったので、相内支所の高橋係長に調査をお願いしたところ、翌日、昭和26年5月25日との回答をいただきました。診療所の引継ぎ文書の中にそのように記載されていたとのことでした。ご協力、誠にありがとうございました。

 

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