ヌプンケシ27号

北見市企画部(市史編さん担当) 〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-23-7111(代)


市史編さんニュース NO.27
タイトルヌプンケシ
平成14年7月1日発行

◎『小泉正保小伝』から
 先日、北見開拓に功績のあった小泉正保屯田歩兵第四大隊長の子孫である、水戸市在住の小泉芳資(よしすけ)氏から、当市に「司馬遼太郎が『坂の上の雲』で小泉正保に触れて書かれて以来、何かと注目されており、鈴木三郎氏が昭和51年に自費出版された『小泉正保小伝』を弘道館などに配布したいので、入手できないか」との問い合わせがありました。しかし年数も過ぎ、鈴木小泉正保小伝表紙先生もお亡くなりなっている状況では入手が出来ないので、鈴木先生の奥様、鈴木正子さんにお願いして、私が所蔵する原本を見やすいようにA5判からB5判に拡大複製し、その複製品を小泉芳資氏に送付しました。
 複製しながら、『小泉正保小伝』を再読してみて面白いことに気づきました。それは、徴兵制と北海道の関係です。 
◇徴兵のがれと北海道 
 この小伝で、小泉正保の弟である、流氏の長男の証言として次の記述が出てきます。「伯父(註 正保)が極端と言う程の軍国主義の人であったとかで、弟達全部を軍人にするつもりで中等教育を施したのですが、徴兵とか兵役に入ることをみんな嫌い、父の兄(註 次男静、三男正)の時代には当主には兵役免除の特典があったから、皆川、菊地に養子に行った事にして、正保伯父の留守中をねらって兵役を逃れ、父(註 四男流)の時は北海道だけ、戸主の兵役免除の制度が残されていたので、分家届けを出して兵役を逃れ、弟(註 五男誠)渡辺の時は、日高、胆振だけが免除の対象地区であったので栗山の渡辺大助の養子になる事にして日高に籍を置いて兵役を逃れた。こうして男兄弟は全部軍籍がなく、正保伯父はその都度大変に激怒したと父は語っていました。」
 日本の徴兵制度は、明治6年(1873)1月「徴兵令」が発布されたことから始まります。満20歳の男子を選抜して常備軍に3年間服務させることとしましたが、はじめは戸主、嗣子(あとつぎ)など家父長制の中心になる者、また、官吏や官公立学校生徒、「代入料」として 270円を徴兵免役心得表紙上納した者は兵役を免除されていたのです。当時、未開拓の北海道は適用除外されていました。また、『徴兵免役心得(ちょうへいのがれのこころえ)』という兵役免除の方法をかいた冊子等まで出版され、それ等を参考に兵役を忌避した人々も多数いたのです。
 明治10年(1877)の西南戦争は、徴兵等で動員された平民兵士と薩摩士族の戦争でもありました。西南戦争の論功行賞と俸給削減の不満で兵士が反乱をおこしたのが、明治11年の近衛砲兵隊による「竹橋騒動」でした。この事件をきっかけに、自由民権運動と軍隊が結びつく可能性を憂慮した明治政府は、明治15年(1882)「軍人勅諭」を明治天皇の名をもって下付、絶対的規範として天皇への忠誠を兵士に求めました。
 こうした動きの中で、明治22年(1889)1月に公布された「改正徴兵令」によって戸主の徴集猶予など免除規定が廃止され、「国民皆兵」主義が実現します。これにより、徴兵忌避は「非国民」の犯罪になり、宗教上、思想上の兵役拒否は弾圧されました。
 それまで徴兵免除の地域であった北海道は、函館、江差、福山といった道南の一部のみにこの「改正徴兵令」が施行されたのでした。明治29年(1896)1月になって、渡島・後志・胆振・石狩一円に施行地域が拡大され、明治31年(1898)1月全道に徴兵令が施行されました。これにより、特別に屯田兵を置くことの意味がなくなり、明治32年には屯田兵募集が停止され、北見においては明治36年(1903)屯田兵現役解除、4月には屯田歩兵第4大隊解散となりました。
 小泉正保の弟たちは、前述したような徴兵免除規定を利用して、巧みに兵役を逃れていたのです。あの有名な文学者夏目漱石も、北海道新聞社が出版した『続 北へ…異色人物伝』によれば戸籍を「1892年(明治25年)4月5日、東京の牛込区(現新宿区)喜久井町一番地の
兄直矩から分籍。いったん同区馬場下町二番地に移した後、ただちに岩内郡吹上町17(現在の岩内町御崎13番地)の浅岡仁三郎方に同居として転籍している」そうで、22年間一度も訪れぬまま、1914年(大正3年)になって東京へ本籍を移したとのことです。この東京から北海道への転籍についても、徴兵逃れであったいう説が有力です。
 このように、戦前、北海道に来道したり、関係した人々の中には、合法的に徴兵を忌避した者や画像逃亡してきた者も多数いたと推測されます。 
◇国民皆兵 
 ところで国民皆兵という考えは、1789年のフランス革命にまで溯ります。それまで、ヨーロッパで戦争をしていたのは限られた貴族たちや傭兵軍隊でした。傭兵などは、契約で都市を防衛したりしていましたから、お互い傷つかないように、敵(同業者)と景気よくドンパチ「戦ったみせる」ようなところもありました。それが一変するのが、フランス革命に干渉する隣国の王政軍隊に対して、一般国民が皆「兵士」になった時からです。このように「祖国防衛」の熱狂にかこつけて、時の為政者が国民を兵士として無尽蔵に動員することができるようになるにつれ、しだいに人命を軽視した「特攻隊」をはじめ「人海戦術」など、残酷な軍事消耗作戦も可能になりました。
 たとえば、大日本帝国では、兵士の命は軍馬より下の「1銭5厘」の値しかないといわれました。つまり、軍馬は死ぬと簡単に補充はつかないが、兵士は死んでも赤紙(召集令状)1枚を1銭5厘で発送すれば、幾らでも補充できると考えられていたのです。
 戦後、日本では「戦争の放棄」の現憲法の下で、徴兵制はなくなりました。1980年8月15日、鈴木善幸内閣は徴兵制は憲法違反とした政府答弁書を決定し、徴兵制違憲論をあらためて確認しています。

 《中庭だより》 
☆過日、北網圏北見文化センターの学芸員と話をしていたところ、現在の学説で見ると地質学的にも前回の市史は内容の書きかえを要することがわかってきました。たとえば、かって北見盆地にあったと言われる「古北見湖」についても、湖と呼べるほど長期に存在していたのか、疑問だというのです。どうも、その辺は筆者も知識不足でこうした事柄について、もっと勉強したり、専門家の話を聞くことが必要だと思いました。画像ねこ
よくある質問のページへ

教育・文化

教育委員会

スポーツ

青少年

生涯学習

学校教育

文化施設

姉妹友好都市・国際交流

歴史・風土

講座・催し

図書館