ヌプンケシ30号

北見市企画部(市史編さん担当) 〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-25-1039


市史編さんニュース NO.30
タイトルヌプンケシ
平成14年8月15日発行

◎薄荷工場の見取り図
 前号でもお知らせしたとおり、薄荷工場の職員として昭和58年の閉鎖まで勤務されていた小山正信氏が記憶をもとに書かれた工場内部3階までの見取り図を頂きました。同時に閉場直前の工場内の様子を写したアルバムと、ホクレンから発行された閉場記念誌『薄荷とホクレン』と、昭和39年9月30日発行『薄荷』もお借りすることができました。
 その見取り図の工場1階部分は、下図のとおりです。

 工場1階部分の見取り図

 見取り図にそって、薄荷精製の過程を説明してみましょう。原料倉庫には、農家で秋に蒸留された取卸油が缶に入れられ、冬季に運びこまれます。それで凍結した缶を暖めるために一晩、温度が32度もある缶溶解室に置くのだそうです。その後、原料缶開缶室で缶から油が抜かれ、タンクに流しこまれます。続いて、油は粗脳室にパイプをつたって持ちこまれ、粗脳冷却装置で冷やされ、粗脳(結晶)と油分が分離できる状態となり、遠心分離機にかけ、粗脳と油分を分離します。この段階の油分は脱脳油(赤油)で、これを水蒸気蒸留で製品化したのが、薄荷油(白油)となります。一方、粗脳は精脳室に運ばれ、油と混ぜられ、結晶缶に詰められ、缶の底だけ—10度にして10日間静置し、再結晶化させられて、写真でよく目にする薄荷脳(結晶)になります。その後、2階で乾燥、製品化されました。 
この見取り図とアルバムの写真を突き合わすと、その当時の仕事の様子が少し見えてきました。(なお、工程の概略をもっと知りたいかたは、井上英夫著、北見ブックレット『北見の薄荷入門』を参照してみてください。)
 小山氏のお話では、工場内部は、昭和天皇が来場して以後も設備の配置が相当変わったとのことです。工場の外見も、昭和27年3月14日に本館3階161坪が薄荷脳回収室の溶接作業のスパークで焼失したことで屋根の架け替えがあったり、大きな煙突も重油ボイラーの導入で取り払われているなど、相当変化しているようです。
 お借りした薄荷工場閉場記念誌『薄荷とホクレン』も、筆者はこれまで見たことのない装丁も立派な貴重な本で、ホクレン広報宣伝課様の複製許可を得て、拡大複製しました。
 その座談会で、工場長として北見の薄荷隆盛に功績のあった加賀操氏が、薄荷の起源について「これは道がやったのでもなければ、国がやったのでもないんです。北海道へ移住した人で、内地で作ったことのある人が、郷愁でね、苦労して本州から根を持ってきたのが北海道の薄荷の起源です。」と語っているのが印象的でした。国や道の指導によるのではなく、庶民が見つけ、育てた薄荷であることに注目したいと思いました。
 加賀氏は「薄荷は過去、戦争をすると減ってしまった。戦争が終わり、しばらくしたら薄荷は暴騰するんです。日清、日露、世界戦争とそうだった。ただ、日清、日露の後は幸いに値段が上がったから伸びたが、世界戦争はあんまりひどすぎてね、世界的にあれだけ殺し合いをしたから直らんのですよ。そのときブラジル産が出て、人工薄荷が出て、バタッといってしまった。これが薄荷の画像ハッカ歴史であり、歴史は絶対に変えられません。」とも言っています。薄荷もまた、戦争に命運を左右されたようです。
◇小山正信氏のこと
 ここで、資料提供者である小山氏の略歴を紹介しておきましょう。
小山正信氏写真小山氏は、父=仁太郎さん、母=ノブノさんの三男として、大正6年(1917)6月1日、斜里郡上斜里村(現在の清里町)1線に生まれました。
大正13年5月、野付牛町に転入、昭和6年(1931)、中央小学校高等科を卒業、森永練乳株式会社に入社され、昭和11年、病気のため退社。以後、農業に従事。昭和18年、旭川88師団に入隊、昭和20年(1945)終戦により復員。昭和22年から解散の昭和26年まで、旭農事実行組合の推薦で農業調整委員をされています。
 昭和28年(1953)、薄荷工場に冬期間臨時雇として勤務、その後、ボイラー、危険物取扱の資格を取得され、職員採用試験を受けて職員となられました。ドイツ製機械を駆使して輸出用缶に蓋をする技術が高く評価され、昭和47年定年退職後も長期臨時として昭和58年(1983)3月の工場閉鎖までおられたことは、ご案内のとおりです。その後は、悠々自適、寿大学で学ばれ、また老人クラブの役員も歴任されています。
この略歴にあるとおり、小山氏は、薄荷工場で「働き盛り」の約30年間を過ごされています。ですから、薄荷工場への深い思い入れと愛着を持たれていることは、お借りしたアルバムの写真一枚一枚に感じられました。

 《中庭だより》 
☆前号を読んで、ミントコールで「野付牛小唄」をお聴きになった方から、歌詞の4番目に「雪の白妙〜」とあるが、歌を聴くと「雪は白妙〜」になっている、とのお電話を頂きました。ご指摘のとおりで、裏面に載せた楽譜に手書きされた歌詞も「雪は白妙〜」となっています。謹んで訂正させて頂きます。言い訳になりますが、正面ページの歌詞は昭和32年版『北見市史』そのままのコピーです。こんなところにも、気づかない間違いがあるんですね。チェックしておかなくては、と思いました。
☆7月29日、清月社長、渡辺主税氏が『梅の家』の名が襟にある半纏を持参されました。しるし半纏にしては布地が厚く、筒袖で消防用にあつらえたものとも考えましたが、背には割烹と大きく文字があり、確定はできませんでした。貴重な資料なので、北網圏北見文化センターに連絡し、デジカメで記録してもらい、返却いたしました。
☆実は今までワープロで紙面を作成してきたのを、今回からパソコンにしました。紙面のスタイルが確定するまで、しばらくかかるかも知れませんが、よろしくお願いします。
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