ヌプンケシ35号

北見市企画部(市史編さん担当) 〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-25-1039


市史編さんニュース NO.35
タイトルヌプンケシ
平成14年11月1日発行

◎香川軍男夫人、香川央様のお便りから画像じゃがいも
 前号を発行するにあたり、誤りがないよう試刷りを香川軍男さんの奥様、央様にお送りしたところ、次のお便りを頂きましたので、ご紹介します。(なお、原文は縦書きです。)

 御丁寧なおたよりと『ヌプンケシ』拝見いたしました。香川のこと おとりあげくださいますそうで、有りがとうございます。
 特別お直しいただくこともないと存じますが、足を悪くしましたのは結核性関節炎だったと申しておりました。
 お貸ししました写真は、札幌の写真家、佐藤雅英氏が写されたものです。
 天才倶楽部の宴会も、はじめは香川の所に集っておりましたが、だんだん人数が増えてお寺に移ったと聞いております。
 右のようなことで大したことではございませんが、せっかくですので、おたよりいたします。

 ◇悪かったのは左足
 香川さんが足に障害を持つことになったことについて、妹である下斗米ミチさんは『母さんの風呂敷包み』の中で「学校で幅跳びか何かをして足をくじいたのを、昔のことだから小麦粉に酢を入れて練ったものを塗るというような治療をしていました。そういう家庭療法だけで病院に行かずにすませているうちに、どんどん悪くなって、手術しなければいけないところまできてしまいました。」と書いています。そこで「結核性関節炎」であったか、ミチさんにお電話で問い合わせしたところ、「小さい頃のことで詳しいことは憶えていない」というお返事でした。
 過日、香川央様に電話してお聞きしたところでは、香川さんは肋膜炎にもなったことがあったそうですから、足をくじいたのが感染の引き金になったのか、当時としては難病の結核に関節を侵されたようです。今は早期に病院へ行くことができたならと思いますが、父親が病気で倒れていた経済状態では、香川さんは気休め程度の民間療法で我慢せざるを得ず、結局は病状が悪化、手術しても、後遺症が残る結果になったということでしょう。
 余談ですが、結核は昔、「不治の病」とも「亡国病」とも恐れられていました。古代人の骨を研究している学者によると、縄文時代にカリエス(結核菌によって骨が侵され、膿がでる病気)等の発症例は見当たらず、大陸から人々が大量やってきた弥生時代以降に急激に発生したというのです。だから、縄文人の勢力が衰えていった原因の一つに、結核の流行をあげる学者もいるほどです。実際、栄養状態の悪い、抗生物質のなかった戦前・戦中・戦後までは、結核は恐ろしい病気だったのです。(しかし、これも過去形では言えなくなるかもしれません。今では抗生物質が効かない耐性菌も出てきており、じわりと結核患者が増えきているということです。)
 ところで、「どちらの足が悪かったのか」という基本的なことについて、生前、香川さんと近しかった人達に聞いても、記憶というのはあやふやなもので、まちまちな答えがかえってきました。これも、奥様から伺ったところ、「左足」であったそうです。
◇写図生は写字生が正解
 前号で引用した菅原政雄先生の文章で、香川さんが野付牛町役場の臨時雇「写図生」として採用されたとありましたが、念のため市役所の人事記録を見てみましたら、「昭和12年6月21日 写字生ヲ命ズ」とありました。続いて「昭和12年11月15日 土木雇員ヲ命ズ」とあり、同日「土木課土木係兼建築係ヲ命ズ」となっています。土木課勤務であれば、図面を写すと考えてしまいますが、香川さんの最初の職名は「写図生」ではなく、正式な辞令では「写字生」だったということです。「写字生」なんて、30年近く役所にいながら私も初めて聞く職名ですが、コピー機が発明されていない時代でしたから、清書したり、原本書類の字を写して複製品を作る臨時職員の仕事もあったということなのでしょう。
 菅原先生はご本人からの「聞き取り」で書かれたのでしょうが、実際はこうした資料との相違も出てくるのです。時間が経過するとどうしても当事者の記憶も曖昧模糊となりがちですから、「聞き取り」では基礎となる資料で補足、もしくは比較検討、補正していく必要があるのです。こうしたことも、今後の市史編さん事業でやらねばならない仕事です。
 天才倶楽部の会場も、奥様が書かれているとおり香川さんのところが最初であったかもしれませんが、現在これといった資料がなく、確認のしようがありません。残念です。
◇北網圏北見文化センターに所蔵されている作品数
 
現在、北見市が所有している香川軍男さんの作品は、北網圏北見文化センターにありますが、意外に少なく、内訳は油絵が5点、いも版画では「北の魚」シリーズ18点、年賀状35点、「いも版ひかえ」4点、「北海道誌」1帖(なかに29点版画あり)しかありません。
 画像ふくろう市民の財産として、水彩画など初期の作品も含めて所蔵点数を増やし、香川さんの生涯と作品の全体像が概観できるように整備して、常設展示しなくては、香川さんに対して申し訳ないと筆者個人は思います。
 また、少々現実的な話になりますが、北見市民だけでなく、全国の愛好家に鑑賞してもらうためにこれ等を充実させ、同センターで保存されている歌人齋藤茂吉の各種資料と合わせて施設整備すれば、全国から北見に集客できる「観光資源」にもなると考えますが、皆さんはどのようにお考えでしょうか。

 《中庭だより》 
☆前号の「菊まつり」に続いて、今回は「ぼんちまつり」の名の由来について、お子さんが調べているということで、お父さんから問合せがありました。参考に北見観光協会50年記念誌から関係するページをコピーして、提供しました。商工会議所が北見夏まつりの名称を公募して、昭和54年「ぼんちまつり」にしたのですが、選定理由はお子さんが市立図書館へ行って当時の新聞を直接調べるようにお勧めしました。
何でも安易に回答するよりも、その方が子どもにとって勉強になるからです。図書館に勤務していた時も、こうした宿題・自由研究やクイズの問い合わせには、情報やヒントは提供するけれども、回答はご自身で探し、判断するようにお願いしていました。答を他人まかせにしない、自分で考え、判断させる教育的配慮も必要だと思います。
☆伊谷市長時代に続く、滝野市長時代について問合せがありました。滝野市長は、どうしても個性の強烈な伊谷市長と宇佐美市長に挟まれて影が薄いのですが、権利闘争を始めた市職員組合との対応も含めて、電算機器を導入したり、機構改革したり、ワンマンな伊谷市長の市政運営から転換し、事務改善策を探ろうとした過渡的な市政の市長さんであったと思います。これも適当な資料が見つからず、平成3年オホーツク新聞で連載された『特集・市制50年』の「第3部 戦後編(滝野時代)」くらいしかありませんでした。この切抜き記事も、伊藤公平調査員が嘱託職員になる以前から個人で収集してくれていたから提供できたわけで、お寒いかぎりです。新聞記事には間違いや記者の勘違いもあって一概に信用できませんが、貴重な資料であることには間違いありません。ですから、報道記者の皆さんには時代を記録しているという自覚をもって、いつも正確な記事をお願いしたいと思っております。来年度以降はこうした新聞特集の整理、冊子化も課題になります。やらねばならぬことは山積みです。
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