ヌプンケシ36号

北見市企画部(市史編さん担当) 〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-25-1039


市史編さんニュース NO.36
タイトルヌプンケシ
平成14年11月15日発行

◎『野付牛村誌』の底本は、『北見之富源』
 明治末年くらいに最初に野付牛(北見)の歴史をまとめたものとして、たびたび紹介してきた『野付牛村誌』ですが、誰がいつ書いたものか、さっぱり手がかりがありませんでした。また、原本も、北網圏北見文化センターに1冊あるだけで、一般に流布された資料ではなかったようです。屯田野付牛村誌表紙兵出身で郷土史研究家であった池田七郎氏が書いたとの説もありますが、ご本人はそのようなものを書いたとは記録を遺していません。大正15年(1926)に発刊された『野付牛町誌』では、先行史書の例としてこの『村誌』は取り上げられておらず、わからないことの多い『村誌』でした。ところが先日、偶然にこの謎がとけました。別件で調査していた時、『野付牛村誌』にある「愛国婦人会 明治三十八年の創立にして当初海軍大尉武藤喜平次夫人武藤甲会長となり日露戦争に際会するや頗る盡瘁する處あり猶引継ぎ経営しあるが故に逐次発展を期すべし」と全く同じ文章が『北見之富源』324ページにあるのに気がつきました。そこで『村誌』と『北見之富源』を比べてみた結果、順序の違いはあれ、全く同じ文章の箇所を多数確認しました。
◇『北見之富源』とは
 さて、この『北見之富源』ですが、明治45年(1912)4月に貴田国平を著者兼発行人に網走にあっ北見之富源表紙た北見実業新聞社から発行されています。その刊行に至る経緯は、巻頭の例言に「本書は去る明治四十一年松崎北雷氏と共に刊行の予定にて編者親しく各村落を視察し、或は各原野を跋渉して、各村議員有志の所見を叩く等、多少の準備を為したりしも、事情の許さざるものあり、竟に刊行至らざりしが。今や網走線鉄道の全通するあり、潮の如く寄せ来る移民および視察者に対して一々北見の状況を紹介するの著書を缺き、多年北見開発論を擁して江湖に絶叫したりし者の、斉しく遺憾とする所ならむと察し」てこの書を編集したとあります。
つまり、急増した移民や視察者へ北見国のガイドブックとして作成されたものなのです。
 構成は第1編総論として、第1章 地 勢、第2章 産 業(第1節 農業・第2節 牧畜・第3節 漁業・第4節 林業及工業・第5節 鉱業・第6節 商業と金融)、第3章 官衙、第4章 教育衛生を紹介し、この管内が非常に将来有望な開拓地であることを強調しています。
第2編北見之町村は、第1章 斜里郡各村、第2章 網走郡各町村(第1節 網走町外二ケ村・第2節 美幌外五ケ村)、第3章 常呂郡各村(第1節 常呂村五ケ村・第2節 野付牛村)、第4章 紋別郡各村(第1節 下湧別村・第2節 上湧別村・第3節 紋別村・第4節 渚滑村・第5節 興部外二ケ村・第6節 雄武村・第7節 澤木村・第8節幌内村)で各町村の状況を統計と各地有力者の談話も入れて紹介しています。第3編 富源の開発では、第1章 北見の鉄道、第2章 北見の築港、第3章 結 論で、開発の急務について論じています。
 『野付牛村誌』は、この第2編第3章「第2節 野付牛村」が底本になっているのです。私は当初、野付牛村役場関係者に書かせたのか、とも考えましたが、例言に「本書の刊行につき各村役場並に有志に嘱して、生産力又は重要問題等の所見を求めたる處、(中略)興部、野付牛、美幌は全く諾否の回答すらなかりき」とあるのを見れば、それは考えられません。
『村誌』が先に書かれ、『富源』の当該部分はその抜粋かとも考えましたが、たとえば『富源』にある野付牛市街地の「現在戸数四百六十八戸、人口二千三百人」とあるのに、『村誌』では「戸数六百人口約三千人」となっているなど、増加した係数が『村誌』には記録されています。これは『村誌』が後で書かれた証拠だと見ています。ですから、『富源』が刊行されてから、「野付牛村」の部分を、増補、改編して『村誌』にしたと見るべきだと思います。『富源』を知っている人達の間では、この『村誌』の著者が誰かは全て自明のことでしたから、奥付も著者名も書く必要がなかった、と推測されます。
 しかし、交通機関も整備されてない時代に網走支庁管内をくまなく歩き、統計資料を収集し、当時としてはかなりの写真を掲載した案内書を刊行した、貴田国平の行動力には脱帽します。
◇貴田国平の略歴
 さて、私が調査した『富源』の著者、貴田国平は明治3年(1870)8月5日、山口県に生まれ、東京で政治活動をしていましたが、札幌を経て明治31年夏、網走に来住。以後、網走港修築運動を展開。その一方で、網走管内最初の活版印刷所「網走活版所」を明治34年夏、開業。明治35年4月には、管内最初の新聞『網走週報』を創刊。明治38年7月には『北見新聞』と改題して第1号を発刊。網走管内ジャーナリストの先駆者でもあったようです。
貴田国平写真 明治35年より大正6年まで町会議員。大正7年、立憲政友会に入党。大正9年より昭和11年まで三度道会議員に当選。清水昭典先生が『ふるさとの歴史を訪ねて』で書かれているとおり、前田駒次のライバルとして、大正10年ごろの網走支庁野付牛移転運動で網走存置を決定づけた政治家でありました。
また北見とも縁があって、常川にある「貴田の沢」の名の基になった貴田農場を明治37年に興しています。昔の人にしては長命で、昭和33年(1958)9月14日、88歳でお亡くなりになりました。
 この略歴をざっと見ただけでも、多面的でドラマチックな人間像が浮かんできます。ですから、深読みすれば野付牛と当時対抗していた網走の有力者が書いたものでしたから、この『村誌』は『野付牛町誌』刊行以降は無視されるようになった、とも考えられます。
 思いもしないことから、過去の史書について少し事情が分かって来たような気がします。
 しかし、貴田という人物はなかなか想像力を刺激します。28歳で、網走に乗り込んで、印刷業を始めたり、牧畜をやったりしていますが、その資金はどう調達したのでしょうか。戦後はどんな暮らしぶりであったのか、ぜひ網走の歴史研究家に明らかにしてもらいたいものです。
 当市の方も、詳しい資料もない貴田農場(『富源』の巻末の広告には貴田牧場とある)の実態をいずれ何らかの形で明らかにしなくては、と思っています。

 《中庭だより》 
☆貴田国平の経歴が分かる資料がなく、網走市立図書館職員の方にお世話になりました。
お電話したところ、名士録などが整理されているらしく、早速FAXで資料を提供して頂きました。こうした名士録の欠点は没年が不明なことなのですが、それも調査済らしく、親切にすぐ教えてくれました。現在、当市の市史編さん事業でも名士録の整理を一部進めているところですが、こうした没年の確認も、これからの大変困難な作業になると思っています。
☆その上、当市図書館の蔵書『富源』から欠落していた、巻頭にある「北海道網走支庁管内之図」のカラーコピーを1部送ってくださいました。コピーで見ても、明治45年頃の地図としては相当立派なものですから、当市『富源』の地図は誰かに盗まれたのかもしれません。
コピーのコピーになりましたが、参考に2部を当市図書館に渡しました。網走市立図書館の皆さん、本当にありがとうございました。今後ともよろしくお願いします。こうした各方面の皆様方のご高配とご協力がなくては、当市の市史編さん事業は進められません。
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