ヌプンケシ37号

北見市企画部(市史編さん担当) 〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-25-1039


市史編さんニュース NO.37
タイトルヌプンケシ
平成14年12月1日発行

◎12月8日は太平洋戦争開戦日
 アメリカから「テロ国家」と認定されたイラクへの攻撃が微妙な段階になってきました。昨年9月にあった、アルカイダによるニューヨーク国際貿易センタービルへのテロ攻撃は「第二の真珠湾攻撃」ともいわれ、アメリカ人の「愛国心」に火をつけ、テロ組織を支援した、またはテロを仕掛ける可能性のある「テロ国家」への戦争攻撃承認となりました。
 そのたとえになった真珠湾奇襲攻撃がおきたのが、昭和16年(1941)12月8日で、これを口火に大日本帝国とアメリカ合衆国をはじめとする連合国との「太平洋戦争」(第2次世界大戦)が始まりました。緒戦は戦術的に優勢だったものの、戦略に欠ける日本軍は国家あげての総力戦に結局大敗して、昭和20年8月の敗戦を迎えることとなります。その結果1977年時点で厚生省が発表した戦没者数は、「軍人・軍属・准軍属」で230万、外地での戦没一般邦人が30万、内地での戦災死者50万、計310万人となっていますが、現在も調査中とのことですから、もっと増えることでしょう。これに交戦国、戦場となった国々の犠牲者を加えると、この戦争での犠牲者は膨大な数になります。
◇北見市関係の戦没者
 
北見市関係の戦没者については、以前のニュースでもお知らせしたとおり、他の市町村史では戦没者数だけでなく、氏名まで記録され、追悼されているのに、『野付牛村史』『相内村史』を除いて、これまで市史には一切記述はありません。編集委員会でもこのことが課題として挙げられ、発刊予定の仮称『きたみ現代史』では、できる限り戦没された方々の氏名を明らかにして、末永くお伝えしていこうということになりました。
 しかし、実際まとまった資料がないか調査してみたところ、市行政内部には具体的な戦没者の氏名を記した資料はなく、北見市遺族会(会長今井満氏)が管理されている『戦没者名簿』しかありませんでしたので、お願いして閲覧させて頂きました。
 『名簿』には、記載項目として戦没者氏名、戦没年月日、戦没地があり、古くは日露戦争戦死者7名を含む709名のお名前がありました。しかし、姓しか記入されていないものが2名、戦没年月日、戦没地の記載のないものも多数あり、今後調査を要するところです。
この『名簿』を分析された小林正編集委員の中間報告によると、戦没者の内、戦没地が判明している653名を分類していくと、次の内訳になったそうです。
 国内での戦没者が99名で、そのうち北見が22名、道内が39名、道外が38名。
 国外では554名の戦没者がおり、その内訳は南方236名、沖縄127名、中国本土82名、満州42名、千島18名、ソ連12名、樺太10名、ノモンハン8名、台湾8名、朝鮮4名、日露戦争7名となっています。
◇日本軍の戦史と戦没者
 
この国外の戦没地を見ると、日本軍の戦史が明白に示されているようです。満州・中国本土の戦没者は、まさしく昭和6年(1931)の満州事変、昭和12年(1937)の盧溝橋での日中両軍の衝突を発端に日中全面戦争へと、戦線が拡大された犠牲者が大部分だと思われます。
 このように日本が中国を全面支配しようとしたことに、英米が反発、国際的に孤立する中で昭和15年(1940)日独伊三国同盟を結成、太平洋戦争へとなだれこんでいったのです。
 南方の戦没者は、日本がとった「南進政策」の犠牲者と言えます。日本陸軍は当初、ソ連を攻略対象とした「北進」を主張していましたが、張鼓峰事件(1938)、ノモンハン事件(1939)で壊滅的な敗北を喫して方針を転換、米英の経済制裁もあって、南方の石油等地下資源の確保を目指し、戦争を組み立てました。その広大な制海権を確保する第1弾が真珠湾の米海軍太平洋艦隊攻撃だったのです。しかし、中国戦線と同じように「戦争を戦争で養う」、つまり戦場で食糧物資略奪という無謀な発想で、十分な物資も補給手段もないまま、南方の島々にまで戦線を広げ、結局は多くの兵士を餓死させる結果となりました。(歴史学者、藤原彰氏の『餓死した英霊たち』によると、軍人・軍属戦死者の6割が餓死だそうです。)また、ろくな護送もつかない輸送船が、目的地に着く前に次々と米潜水艦の餌食になり、溺死した兵士もたくさんおりました。
 日本国内唯一の戦場となった沖縄は、本土決戦を想定した時間稼ぎの「捨石」となりました。守備部隊には、満州から配備された北海道出身者が多い関東軍第二四師団がありました。これが、今みている戦没者数に反映しているのでしょう。「徹底抗戦」ということで投降は許されず、集団自決、日本軍による島民虐殺など、筆舌につくせぬ悲劇によって日本人犠牲者は約19万人になったと言われます。平成7年(1995)に摩文仁丘に建立された「平和の礎」には、沖縄戦犠牲者約24万人の名が刻まれ、北見出身者の氏名もあります。
◇本当の戦没者数は未確定
 
今回は北見市遺族会で管理されている『名簿』を取材させて頂きましたが、この会に属してない戦没者ご遺族もおられるそうです。また、戦争当時は戸籍所在地で召集をうけましたので、北見に当時住んでいても、出征は本州という例もあるそうですから、北見関係の戦没者はもっといるものと思われます。集落史にも戦没者が記載されている例もありますので、編集委員会では関係資料を洗い出して、可能な限り記録していく計画です。
 とかく、戦没者を軽く数でしか捉えず、自分たちに関係のないものとあしらいがちですが、かつて戦没者一人ひとりに掛替えのない人生があり、愛する人たちがいたことを、そして遺族には厳しい戦中・戦後の生活があったことを思わずにはいられません。また、これは交戦国の戦争犠牲者にも同様なことが言えます。こうした尊い犠牲の上に、日本の平和があることを、現在を生きる私たちは忘却してならないと思います。

 《中庭だより》 
☆北見市の生き字引であった新井三之助さん(1883〜1978)が、昭和18年に書き、戦後、追記してまとめられた自伝『落穂』を、孫である新井修氏が読みやすく編集、自費出版された改訂版を、友人である伊藤調査員に寄贈されました。埼玉県から一家あげて北海道旭川に入植してから、第7師団設置で立ち退かされ、野付牛駅前で雑貨屋を開業して成功し、満州での事業展開など、まるで大河ドラマを見るような内容で、筆者も初めて知る事も多く、貴重と考えましたので、許可を得て複製させて頂きました。市立図書館にも複製を渡しましたので、興味のある方は閲覧してください。
☆さる11月13日、道立図書館北方資料室の書庫に特別に入らせて頂きました。書庫内の北見市関係資料の調査でしたが、朝10時から夕方5時まで書架の間を目をさらにして見てまわったら、流石のおじさんも疲れてしまいました。戦前、北海道史を編纂した河野常吉関係など貴重な資料に出会うとついつい目を奪われ、結局は地下書庫までにはたどりつけませんでした。また、機会をあらためて訪問したいと思っております。調査に際し、ご配慮頂きました大島室長さんはじめ職員の皆様に心からお礼申しあげます。
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