ヌプンケシ120号

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市史編さんニュース NO.120
 タイトルヌプンケシ
平成18年5月15日発行

◎常呂川の流れから(2)

◇旧石器時代から北見に人間が住んでいた。
細石刃を棒の先につけた槍の復元図 常呂の岐阜第二遺跡からは、約2万年前の石器、石刃が出土しています。北見の広郷8遺跡からも約1万8千年前の細石刃が発見されています。氷河期、シベリアまで進出した人類は2万1千年前に細石刃を棒の先につけた槍(右はその復元図)を発明し、マンモスなど大型動物を狩り食糧にしていました。しかし、2万年前、シベリア内陸部が零下80度まで下がった大寒冷期に極地砂漠が広がり、海面が現在より100メートル以上降下して、間宮海峡、宗谷海峡もシベリアと陸続きでしたから、大型動物達は植物を求めて北海道にやってきました。それを追って、マンモスハンターたちも常呂や広郷にやってきたのです。
 「地面を掘れば何か出る」と言われるほど、常呂は遺跡の宝庫です。佐呂間湖の東岸から常呂川河口に至る間に、120か所をこえる遺跡群が集まっており、旧石器時代から近世アイヌ期まで人が住み続けていた跡が発見されています。国指定史跡「常呂遺跡」には、縄文時代(約4千年前)、続縄文時代(約千8百年前)、擦文文化時代(約千年前)の竪穴住居跡が2,500軒以上あると言われています。
 それだけ古代人が暮らし良い、海の幸、山の幸に恵まれた土地であった証拠です。
◇常呂には東京大学文学部の施設もある。
 東京大学も常呂に注目し、昭和32年(1957)以来常呂町内で継続的な考古学的発掘調査と研究を行ってきました。昭和40年(1965)には常呂研究室が、昭和48年(1973)には文学部附属北海文化研究常呂実習施設が設置されています。
大西信武氏写真 この陰には、大西信武氏という個人の働きかけがありました。大西氏は昭和47年11月『常呂遺跡の発見』という本を講談社から出版していますが、そこにある略歴を次に引用します。「明治32年(1899)、富山県五箇山からの北海道開拓移民の三男として旭川に生まれる。近くにアイヌ部落近文があり、幼くしてアイヌと親しむ。小学校を出るとすぐトビ職、土方の仲間に入り、北海道全土をまたにかけて歩く。常呂町に落ち着き、土建業、常呂劇場等を経営し、町会議員等にもなった。常呂町に散在する先住民族の遺跡、竪穴の大群落に魅せられ、憑かれたように遺跡保護を叫んできた。ついに東京大学駒井教授の知るところとなり、昭和三十二年発掘が開始され、四十二年には東大常呂研究室が開設され、今日にいたっている。大西氏はその功績を認められて昭和四十六年度『北海道文化財保護功労者賞』を受賞。」晩年も遺跡保護に尽力されていた同氏は、昭和55年(1980)に逝去されました。
 北見市民だったら、一度は【ところ遺跡の森・ところ遺跡の館】を見ておく必要がありますね。少し暖かくなりましたから、散策に出かけて見てください。
◇謎のオホーツク文化
熊の彫刻写真 常呂にはオホーツク文化の遺跡もあります。オホーツク文化は、7世紀から13世紀にかけて、サハリン南部から南千島、北海道ではオホーツク海沿岸に栄えた文化です。その当時の日本では、飛鳥時代から鎌倉時代のはじめに当ります。この文化の源流は、ロシアと中国の国境を流れるアムール川(黒竜江)の海域や、サハリンにあると考えられています。
 オホーツク文化の人々は、オホーツク沿岸へ流氷に乗ってやってくる海獣類や魚類を捕獲して生活しており、縄文系とは違う北方系だったようです。モヨロ貝塚もそうですが、常呂の遺跡からもたくさんのトドやアザラシ、オットセイや魚の骨が出てきます。また、シベリアなど大陸方面から来た青銅製品、鉄器などが出土しています。
 住居は五角形・六角形をした大きな竪穴式で、複数の家族が住み、室内には熊の頭蓋骨を積んだ祭壇がありました。熊を神としてあがめたのか、彫刻が多数残されています。この文化はその後消えていくのですが、アイヌ文化の中に取り入れられたと考えられています。
◇古地図・文献に出てくるトコロ
 常呂の語源は、アイヌ語の「トーコロ」から来ているそうで、「トー」とは沼のこと、「コロ」は「何々がある」ということで、つまり「沼のあるところ」という意味らしく、その沼とは佐呂間湖か、かつてその周辺に広がっていた沼をさしたようです。
 古い地図・文献などで、「トコロ」の名を探すと、寛文七年(1667)当時蝦夷地を治めていた松前藩が作製した『松前蝦夷図』に「ツコロ」と書かれているそうです。その後、享保五年(1720)に新井白石が著したアイヌ地誌である『蝦夷志』、寛政4年(1792)に出版された『蝦夷俗話』、伊能忠敬らの測量を基に文政四年(1821)に完成した『大日本沿海輿地全図』、松浦武四郎が安政六年(1895)に刊行した『東西蝦夷山川地理取調図』などに「トコロ」の文字があるそうです。
◇常呂と藤野家
 天保5年(1834)に松前島から琉球まで国ごとに各村の石高を記録した天保郷帳には、「モンベツ持場」に「トウゴロ」というのがあるそうです。文化5年(1808)に松前藩から、近江国愛知郡下枝村の人、柏屋喜兵衛(後に名字帯刀を許されて藤野姓となる)は、他2人と、ソーヤ、エサシ、モンベツ、トコロ、アバシリ、シヤリの六場所の請負人になり、この運上金は600両の定めになっていたそうですから、天保郷帳にも常呂のことが記載されたのでしょう。
 天保年間、藤野家は松前一の豪商になったそうですから、六魚場の水揚げ額が莫大であったことが推測できます。藤野家は文久2年(1862)まで場所請負を続け、「北見沿岸は、藤野家の独壇場でアイヌは完全に藤野家の雇人化し、その事業上の労力供給源地として斜里のアイヌは国後方面へ、紋別のアイヌは宗谷利尻等へ強制出稼ぎをさせられた。/このため、出稼者の健康と生活を脅かし、供給地での人口資源は荒廃し、その生活全般を窮迫においこんだ。/安政3年(1820)この状況を調査した松浦武四郎は重大問題としてこれを取り上げている。」(『常呂町史』より)次回は、その松浦武四郎の常呂川での足跡を辿ってみようと思います。(続く)

《中庭だより》
☆図書館で昭和22年3月1日付北見新聞に、2月27日北見市会で「観兵通は中央通に改称」という記事を見つけました。同通りは明治時代に「停車場通り」といわれ、大正10年に軍事演習にあわせて整備され「観兵道路」となり、「中央通り」は戦後の名称なのです。一つ問題解決。
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