ヌプンケシ122号

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市史編さんニュース NO.122
 タイトルヌプンケシ
平成18年6月15日発行

◎常呂川の流れから(4)

◇前号の地図の続きで
 アシリへツの次にライトコロという地名が見えます。この意味は「死んだトコロ川」という意味で、トコロ川は昔、佐呂間湖に注いでいたらしいとのことです。武四郎によれば「此川昔トコロの本川なりしが、大地震有りて其川うづもれ、今は支流の様に成りしと。」大地震があったかどうか分かりませんが、アイヌはそのように言い伝えていたそうです。
 そこから、約2.5キロメートル遡上したところで、ホロナイヒラという急な崖に達しました。ホロナイは大きな沢のこと、ヒラは崖ということで、要するに大きな沢にある急な崖という意味で、その沢とは北にイワケシ川、やや南にある幌内川で、その手前の崖がそれに当ります。常呂川はここで直角に近く曲がり、その頂点にあるところが侵食され急な崖になったそうです。
 遡上するにつれて、松や雑木の密林になり、その木を利用する地名が各所にでてきます。地図にはありませんが、クウカルウシナイもその一つで、「弓を作る木が有る沢」だそうです。
◇クトイチヤンナイで一泊
地図 武四郎一行はクトイチヤンナイで一泊しました。クトイチヤンナイとは、右方平地、左の方に平山があって、その下が浅瀬になって鮭の産卵場所になっているところから名がついたようで、本来はブトイチヤンナイと言い、フトは川口、イチャンとは鮭魚卵を置くところの意味だそうです。この辺は川幅が30間(約55m)あり川底は小石だというから鮭の産卵場所には最適だったのでしょう、梁をしかけて、漁をしていました。その上流に人家が3軒あり、白髪の威厳あるアイヌ老人=名はトツハイシヤニが武四郎らを出迎え、彼の家に招きました。彼の家の脇にその年作った小さな畑に韮大根が蒔いてありましたが、日陰で手入れは十分ではなかったようです。ここの3軒は先の老人を家主とする家族10人と、ノテヒヒウケが家主の4人家族、コシコロが家主の4人家族の、3戸18人の集落でしたが、宗谷の魚場へトツハイシヤニ家から4人、ノテヒヒウケ家全員、コシコロ家から2人強制連行されていましたから、実際8人しかおらず、ノテヒヒウケの家は、朽ちて柱だけ残っている有様でした。
 老人が武四郎にいうには、「子を生み育てて、子どもがようやく水を汲んだり薪を拾えるようになると、魚場へ取られ、老いて稼ぎが出来なくなると山に返される。自分も近年まで宗谷にいたが、上方の近江の国には穢多がいると聞いたが、アイヌはそれより少しましな程度だ。公のお世話など無い」などと怒りだしたので、武四郎はなだめてお土産など渡しましたが、大変憐れに思いました。常呂川を遡上して一日目、5月14日の夜は、ここに世話になり、食事をとり、老人の弾く五弦琴(トンコリ?)を聴かせてもらいました。世間話をしていたら、例年は一晩で3百、4百の鱒が取れたのに、ここのところ食うのがやっとで、ここより上流の村々は飢餓状態で飼犬を殺して喰っているという。「全く達者の者は ソウヤえ引上 村には老人子ども」しか残されていないからで、この老人が憂痛を吐露するのも無理はないと武四郎は思いました。
 この集落のあった場所は、明治5年フトチヤンナへ村となり、明治8年に本字で太茶苗村とされました。鈴木三郎前編集委員長も現地踏査をしたのですが、現在の日吉市街から日吉橋を渡った対岸の31号から29号線の間にあるとしか、推定できませんでした。
◇遡上2日目
 5月15日、早朝、朝食を取り、朝、従者が獲った鱒を老人に分け与えて、出発しました。
 雨催いの中、5丁(約545m)上流に畑が一枚あるというので、舟を寄せてみると、森の中、草を切り払って畝を作り、麦を蒔いてはあるが手入れがなく、ただ畑を作れと指導しただけと思われました。子どもに手習いしろと筆と墨を与えて教えないようなもので、何事も最初に丁寧に教えておけば、指導しなくても翌年にはすすんで植えるだろうに、このようでは初年に(アイヌを)怒らせるままで、開拓は覚束無いだろう、と武四郎は感想を述べています。
 少し上ったところに、カモイノタツフという、義経が昔住んでいたという所があったそうですが、場所はわかりません。義経伝説がこの管内にも結構あるのです。
 やがてテシヲマナイという所に達しました。意味はテシユ(簗)をかけた所ということで、昔から毎年アイヌが簗をかけて魚を取ったのでこの名があるそうです。このテシヲマナイが、後にテシヲマナビ村となり、手師学村となりました。この武四郎の見たテシヲマナイの場所は、鈴木先生の実地調査では、日吉市街から約1キロメートル上流、左手に小川のある沢としています。
 テシヲマナイから約23丁(約2.5キロメートル)遡上すると、メンヒラに達しました。武四郎の記述では「右のかた 峨々たる大岩の平有 此処にて土人等木幣を削りて奉り 拝みをなして過る也」とあります。この岩崖は、30度を越す急傾斜で、岩が風化して崩落しやすく、近年まで日吉、端野間で最大の難所で、明治時代はここをあまり通行しなかったようです。舟で通行したアイヌも安全を祈って、木幣(イナウ)を捧げたのでしょう。現在は舗装道路が切通され、見通しもよくなりましたが、それでも冬に北見から常呂へ行く時などなんとなく危険な感じがします。
 約30丁上るとニコロに達しました。武四郎はこの地名の意味は解し難いとしていますが、一般には「木樹の多い沢」とされています。場所は仁頃川が常呂川と合流するところです。昔ここに人家があったと聞いたそうです。武四郎はこのニコロ川は遡上せず、アイヌからの聞書きを残しています。(紙面の関係で割愛します。詳しくは『北見市史』上巻を参照願います。)
 ニコロから25〜6丁遡上したところにチユウシがありました。本来の名はチシユエウシで、ここは「款苳の如き茎の赤くある草多く有りし処なり」とあり、その草はチシユエといい、皮をむいて干して食用にするとあります。「款苳」とはどんなものか、筆者はわかりません。この「チシユエ」は平凡社『北海道の地名』によれば、植物でアマニュウのことだそうです。
 ここが現在のどこか、さすがの鈴木先生も決めかねたようで、次のように述べています。「在る図には、元忠志小学校のあった台地にコタンを記入したものがあるが、果たしてこれに当るかどうか。実地踏査で、ニコロ川から二十五、六丁(松浦の記録距離)を正確に測定してみると、該当する地点は忠志小学校のある台地からよほど下流に当る。(中略)不確認の現在では、ニコロ川と元忠志小学校地点の間にあるとしか認定のしようがない。」
 このアイヌ地名のチユウシが、明治になったらチイウシ村になり、漢字が当てられ少牛村になりました。さらに昭和になって忠志と改められて、現在に至っているのです。
 次回はチユウシで松浦武四郎が見たアイヌの悲惨な様子をレポートしてみましょう。(続く)

《中庭だより》
☆過日、九州から喜寿のお母さんが幼少住んだ北見に旅行で来られたご一家が不意に来室されました。折角ですから手元にある資料は渡しましたが、短時間で十分説明が出来ず残念でした。
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