ヌプンケシ129号

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市史編さんニュース NO.129
 タイトルヌプンケシ
平成18年10月1日発行

◎常呂川の流れから(11)

◇常呂川の上流
 5月16日、松浦武四郎がクツタルベシベ(訓子府町日出あたり)に一泊したことは、前号に書いたとおりです。この地点から上流には行かず、ムツカの時と同様に同行したアイヌ、フリハツタラ、ウシヤコツカラの両名からの聞き取りで記録しています。それは次のとおりです。
 (クツタルベシベから)少し上ると、左方に「ユツホヲマナイ」という小川がある。この辺は鹿が多いので、猟に来てここで小屋がけをして、鹿を獲り、その頭をこの川に投げ捨てたので、ユツホヲマナイというそうだ。本来の地名は「ユツクシヤハヲマナイ」という。ユツクは鹿、シヤハは頭、ヲマは入るの意味である。
地図 また少し行くと、左の方に「ヲロムシ」という小川がある。その地名の意味は、昔から雷が鳴る時は、必ずこの川の源の山の辺りより雲が起きて鳴り出すのでこの名があるという。その訳はいかにも不思議に思うけれど、全てアイヌでは雷の因縁にあると言うので言うままに記しておく。(現在の訓子府町附近の地図を見ると「オロムシ川」という川があります。)
 また行くと左の方に「ケトナイ」という小川がある。昔よりここも鹿が多いとのこと。アイヌたちが山に猟に来て、ここへ鹿の皮を干しておいたところ、大風が吹いてきて、皮が皆この川に吹き込まれたことからこの地名になったそうだ。ケトとは鹿の皮のことだと言い伝えられている。(秋葉実先生によれば「ケト」とは「鹿皮を張って乾かす木枠」のことだそうです。だから、「鹿皮を乾かす木枠のある沢」と解するのが妥当なようです。現在もケトナイ川があります。)
 同じく左の方に「トマム」という小川がある。この地名は、この川の少し上に小さい沼があるという。それでこの地名になったそうだ。本来の地名は「トウマム」と言うそうだ。(トマムとはアイヌ語で、湿地・沼地のことだそうです。)
 「ホロイチヤン」ここは右の方に小川がある。この川口に鱒・あめのうを(あめのうを)が多く卵を置くが故にこの地名になったとか。ホロは多し、イチヤンは卵を置く処という意味である。(『続訓子府町史』では「その位置は、訓子府町と置戸町の町界を画しているホロイチャン川が常呂川に入る一帯、訓子府町富坂の常呂川一帯であろうか」としています。)
 また少し過ぎて右方に小川「シケレベンバ」がある。この川筋に黄檗(おうばく=キハダの別名—引用者)が多いので名付けられた。この山なみはムツカの方へ連なっているという。5、6里の間は黄檗が多いという。
 右の方に「シ子チフ子ウシ」(シネチフネウシ)という小川がある。全体この川筋には栴(セン−引用者)の木がないのに、ここには一本の大きな栴の木があるので、名付けられたという。栴は舟を作る好材料なので、「ただ一艘の舟を作る木あり」ということだそうだ。シ子は一本、チフ子は舟、ウシはあるの意味である。この辺より険しい高山になる。左はトカチ山である。
◇オケトの語源
 右方に「ヲケトシ」という小川が一筋ある。ここは昔、鹿の皮を投げ込んだところだとの言い伝えである。(これが現在の置戸の語源になっています。明治中期頃からは「オケトウンナイ」と呼ばれ、その意味は「川尻に獣皮を乾かす張り枠のある谷川」だそうです。)
 「ニソマイ」ここに大きい滝がある。この下まで鱒・あめのうをが上るのに、これより上には行かないという。両岸の山は険しい高山で、その地名の由来は「山に猟に来た者がここへイナウ(木幣−引用者)をたて熊の首を置きに来るところ」である。この山には神霊がいるので、全てのトコロのアイヌは神に祈る時は、ここに木幣を立てるそうである。
 その上に小川が一筋あり、左の方へ入り込む。「シイトコロ」ここが水源で、その上に「ヲロケウタナシ」といえる高山がある。(水は)全て、この山から落ちてくるという。(三国山のことでしょう。)この後のことは「路辺之辺志」に記すので、省略する。以前にフリハツタリという者が申し述べていたことだが、彼は10年ばかり前までは毎年ここまで上ってきたと言う。この辺も樹木は樺・松・椴の3種があり、トカチ、石狩の境になるそうだ。細かいことは略す。
◇帰途につく
 17日、快晴恵まれ、武四郎たちはクツタルベシベからムツカに戻り、ここで昼食を取り、ノヤサンヲマナイで一休みして、ヌツケシ(端野)で一泊しました。
 18日、ヌツケシから舟で向こう岸の畑を見分して(下り)、チユウシで小休止して、浜から乗って来た舟と乗りかえました。このコタンで小使エコラツセに暇を出し、住民たちに残った米2升と烟草5把を分配しました。ここの住人で常呂河口から終始案内をしてくれたサケハナには、別に米1升を与えて別れました。
 武四郎はアヘセトル、イコツハと舟で、クトチャンナイに着き、ここで昼飯をとりました。ここから浜まで凡そ十里ありましたが、月夜になれば遅くても大丈夫と出発することにし、世話になったトツハイシヤニ老人の家にも米1升と烟草・針等を配ったところが、トンコリ=五弦琴を持ち出し、贈ると言われたのを辞退しました。しかし老人は「私はこれを作ることができるので遠慮しないでくれ。一宿の因縁も浅くはない。」と強いて、同行のアイヌに預けました。別れに物もなく、古襦半一枚を与え、また来るといって手を挙げて舟に乗りました。
 急流で7、8里は早々に下ることができましたが、浜近くになって舟が進まず、午後8時ごろにようやく番屋に着くことができました。そこには番人孫三郎もおり、モンヘツの詰合から米と味噌が、アハシリからも米・烟草等も届いていました。翌朝探検するトウフツの小使も武四郎を迎えに来ていました。その夜は、米2升を炊き、一同安心して満腹になるまで食べました。最後まで案内役を務めてくれたアへセトル、イコツハにはそれぞれ烟草3把、手拭1すじ、針・革針等を与え、大儀であったとねぎらいの言葉をかけました。

水平線

 長期連載になりましたが、以上が松浦武四郎の記した『戊午登古呂日誌』の大要です。この記録は幕末の当地方を知る上で、誠に貴重な資料になっています。それだけでなく、武四郎が人間的にアイヌ達と深く交わっていたことが少しでも理解して頂けたでしょうか。
 武四郎は、翌5月19日、早朝トコロを出発してトウフツから佐呂間別川奥地の踏査にでかけ、湧別を経て、宗谷に達し、そこから道央部を南下して帰途につきました。
 それにしても、原始林のろくな道もない原野をよく歩き通したものです。しかも、その困難な旅程の中で、事象を正確に記録している武四郎の高い能力には驚かされます。(続)

《中庭だより》
☆前号で昭和14年の野付牛町でのプロ野球開催について書きましたが、『経済の伝書鳩』で市民に情報提供を呼びかけたところ、匿名の方から野付牛中学校庭で観たという電話がありました。資料がない中で、こうした証言は大変貴重です。なお、昭和12年に始まった日中戦争の関係でしょうか、日赤にいた傷痍軍人もたくさん観にきていたとのことでした。
NO .130

 

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