ヌプンケシ132号

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市史編さんニュース NO.132
 タイトルヌプンケシ
平成18年11月15日発行

◎常呂川の流れから(14)

◇大正8年(1919)の大洪水
 大正8年の大洪水について、『北見河川事務所30年史』は次のように記しています。
 「この年の大洪水は、常呂川の治水事業着手の契機となった大洪水でした。この水害をもたらした洪水は、9月19日から3日間降り続いた400mmの豪雨で、各河川が氾濫し、訓子府町史によると、その被害は、死者8人、家畜死亡68頭、流失家屋13戸、床上浸水253戸、床下浸水371戸、道路の埋没流失34カ所451m、破損決壊53カ所823m、木材激突による築堤被害8カ所420m、橋の流失24カ所、農作物の冠水・流失・雨腐れによる被害は21万5,000円に達したと記されています。/一方、野付牛警察分署の調べによる同管内の被害は、全壊家屋33戸、同流失59戸、床上浸水899戸、床下浸水1,299戸、堤防決壊11カ所、道路破損22カ所、橋梁流失5カ所、畑地損害1,947haと発表されています。」
 下の絵は、昭和32年頃に西村 肇氏が12歳当時のその大洪水を思い出して描いたものです。
   昭和32年頃に描いたもの
 現在の田端町の鉄道線路下付近まで、常呂川の水が溢れ出していた様で、訓子府から流されてきたのか、遠くには家ごと人が流されていく様子が描かれています。西村氏の絵の説明書きには「人 家 家畜もろ共に流されて助けようもなく全くのヒサン」とあります。
◇常呂村の惨状
 下流で最も被害を受けた常呂村の様子はどうだったのか、『常呂村史』を次に引用します。
 「大正八年九月十九日より降り出せし雨は、刻々と増大して暴風雨となり廿二日迄降り続きたり。特に常呂川上流の雨量は以外(意外—引用者)に多かりし為め、出水早く村内に於ては廿二日午後四時頃手師学部落に氾濫し、豪雨と共に夜陰に至りしため其の惨状は実に惨を極めたり。濁流は滔々と奔馳して常呂川より漲溢し、其の水勢激しく耕地を洗い民家を倒潰せしめ、住民は家具の片付けする暇もなく或は山 或は高地を指して避難せしも中には不幸にして逃遅れて溺死者を出すに至れり。
 手師学方面を奔馳せし濁流は次第に流下して午前零時頃太茶苗方面に氾濫す。常呂川沿岸特に河身右曲左折甚だしきケ所は疎通悪しく、浸水丈余に至る部落戸数約六十戸の大半は押し流され、中には下常呂原野まで流失したるものあり。
 翌廿三日午前十時頃に至り泥流はついに下常呂原野に氾濫し当日は前日迄の雨天も回復し、晴天となりし為め住民は出水を予想せざりしため被害甚大に及べり。当日村当局には上流野付牛方面より出水せりとの電報に接し午前十時警鐘を乱打して消防の出動を求め警戒に当り、一方馬を走らして部落の状況を視察なさしめると共に舟を遡行せしめ救助準備中、正午頃十七号十二号付近堤防決壊され、其の水勢極めて猛烈にしてライトコロ川に突入して、川沿方面は勿論岐阜部落浸水し鐺沸に流下せしも水量増大の為め疎通なし得ず、刻々と増水して波浪を立てて旋回し土佐部落に奔流して三号付近低地より常呂川に漸次流下せり。堤防決壊により下常呂原野を渺々たる一大湖水に変化せしは一瞬時にして、いかに水勢猛烈なるかを想像し得る次第なり。殊更当日は天候回復せしため何人と雖も目睫に此の悲惨事を予知せず、家具の取片付け勿論一粒の雑穀の持出さへなす暇なく、身を以って退散し亦は救助隊の舟に収容されたる者も多数に達したり。
 浸水は廿四日正午より漸次減じ、減水後避難民全部の復帰し得たるは廿八日にして六日間の長期間に亘れり。村当局は速刻郵便局の建物を救助本部として救助隊を組織し要所には公職者を配置せり。避難所は市街付近は市街地公会堂、部落には浸水せざりし家屋を借上げ罹災民を収容せり。市街地にありては各戸より炊出をなし篤志家の寄贈品を受け、不十分乍らも衣食に窮せしめざる様努めたり。」(なお、原文を見やすいように、引用者が改行して引用した。)
 常呂村の出水期間は9月22日から28日までで、ずいぶん長い間、水に浸かっていたようです。罹災戸数393戸、住宅流失は43戸、同倒潰15戸、納屋物置流失52棟、同倒潰23棟。被害反別 2,305町7反。堤防決壊大小19か所、延長2,000間。溺死者(女 23歳)1名。被害総額は107万9,033円でした。
 常呂村は翌大正9年(1920)にも、8月10日より18日まで水害にあいました。作物被害面積は175町5反。浸水家屋184戸。堤防決潰30か所 延長220間。被害総額は30万8,530円。
 相次ぐ水害に、村民は疲労困憊の極に達し、転出者も相次ぎ、このままでは常呂村は消滅してしまうという危機感を持って、官民一体で常呂川築堤工事の早期着工を道庁に陳情請願しました。時の長官がそれに同情して、大正9年に実地調査がなされ、本道治水工事計画第一位に採択、拓殖費支弁河川に編入されて、大正10年より国費による常呂川治水事業が実施されることとなったのです。その後も幾度も洪水に遭いながら、現在に至っているのです。(続く)

《中庭だより》
☆10月24日、埼玉県在住の元気なおばあさん(90歳)が来室されました。開成の開拓地に入植した両親が薄荷で当てて、金を握って大正6年に上京。浅草合羽橋で厨房道具販売で成功したが、両親とも早死にして財産を奪われ、その後は苦労の末、店を再興されたという。その父母の入植地の調査と供養に来られたそうです。できる限り協力させて頂きました。
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