ヌプンケシ133号

北見市総務部 市史編さん主幹  〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-25-1039

市史編さんニュース NO.133
 タイトルヌプンケシ
平成18年12月1日発行

◎常呂川の流れから(15)

◇北見地域の林業の始まりは、マッチの軸木から
 明治時代、簡単に火がつくマッチは、日本国民にとって家庭の必需品となり、また重要な輸出品ともなりました。すでにその軸木生産は明治10年(1877)代に道央で始められ、それらは大阪、神戸のマッチ製造業者に買われて、マッチに加工されて、中国などアジア諸国にも輸出されました。この常呂川の流域が注目されだしたのは、明治20年(1887)頃に道央のマッチ軸木用材が、乱伐で枯渇してからでした。北見地方には、まだその用材であるヤマナラシ(白楊)・ドロノキが川岸や湿地に密生していたので、軸木製造工場がつくられました。明治24年(1891)7月に網走で山田製軸所が設置され、常呂川関係では明治28年(1895)には鐺沸村に鈴木八重蔵が、明治35年(1092)には野付牛村に鈴木浩気が製軸工場を設置したのが、その例です。
◇木材の流送
 製軸工場では、当初、付近の白楊樹を伐採運搬して加工していましたが、工場付近の原木を採りつくすと、遠方の樹木を伐採、使用することになりましたが、当時は馬車などもなく輸送手段も限られていたので、川の流れを利用して、木材を大量に送る手段にしました。
 鈴木浩気の「野付牛の工場の原木も、初めは遠く訓子府や置戸あたりの原木を伐採して、それを常呂川に投げ込んで流しました。いかだなどは組まず一本一本の原木が、自由、気ままに流れのまま川を下って行ったもので、これが流送といわれるものです。ある時期には、その流木が延々と連なって常呂川を流れた時もありました。」(『歴史の散歩道』より)
 「しかしこの流送による運送量を促進させるために工夫されたのが通称『鉄砲』といわれる方法であった。これは、亜羽(あば)といわれる堰(せき)を河川に築き、満水となった水を亜羽に結びつけたワイヤー木材の流送写真ロープを引くことによって一挙に放水し、その水勢をもって下流に丸太を押し流す方法で、この亜羽が常呂川流域の各地に適当な間隔をもって設けられていたのであった。
 この流送が最も効果的な搬送を可能としたのは、融雪期や大雨によって河川の水かさが増大したときであり、常呂村でも春から初秋にかけて、常呂川で流送された丸太が、常呂沖で船積されるか、サロマベツ川で流送された丸太がサロマ湖に集積され、石油発動機船で曳航されて湖口を経て沖積みされる光景が盛んに見られたのであった。ところがこの流送も河川の流域の開拓が進み、農民の定住、耕地の拡大、開拓道路の開削、築堤や橋梁の架設がおこなわれるようになると、丸太のバラ流しや亜羽が河川の氾濫をひきおこし、溢水が堤防や橋梁を破壊したり、あるいは直接耕地を水浸しとし、農民との間にはげしい紛争をひきおこすにいたった。」(『常呂町百年史』より、前ページ写真も同史より)
 常呂川が大河であれば筏に組んで流すこともできたのでしょうが、ばらばらの丸太を一気に流すこの「鉄砲」は、いわゆる自然災害の「鉄砲水」を人工的につくり出すようなもので、河川に関連した施設に被害を出すような荒っぽい方法でもあったのです。
◇三井木挽工場
大正10年くらいに作成された絵葉書 右の写真は、大正10年(1921)くらいに作成された野付牛町の絵葉書を縮小したものです。説明に「常呂川 木材流送ノ光景」とあります。大きな丸太が、見渡す限りの川を埋め尽くしています。この丸太は、現在のハッカ記念館の下、小町泉通り以南にあった三井木挽工場に運ばれていたのでしょう。この工場については『北見市史』下巻に次のように紹介されています。
 三井物産株式会社は、三井木挽工場を野付牛村に大正2年(1913)10月に設立した。
「原材は当時の野付牛を中心とした周辺一帯より、常呂、無加川を利用して流送して集材した。東一号線が常呂川と交わる地点に、大土場を作って、ここに集材し、ここから工場まで馬車運搬した。土場の集材や運搬の状況は盛況を極めて町の一つの名物となったものである。
 工場は敷地三十三町で現在の南仲町(小泉通り以南)と南町を含む広大なもので建物総坪数一八五八坪、この中工場七七坪、附属建物二三九坪の外、社宅二二棟三〇戸が立並んだ。工場の動力は蒸気機関で一五〇馬力、その生産力は、大正五、六、七年には毎年一七万石平均消化した。従業員は事務職員、職工合わせて一一五名、外に通いの雑役夫七〇名、計一八五名(大正十三、十四年)であった。これに工場と密接な関係をもつ社外の人員二〇〇戸、六〇〇人を含めると町内に与えた影響は多大なものがあった。販路は主として、海外貿易で上海、天津、国内は大阪、東京、名古屋、門司等大都市向けで、これに一部道内需要に向けられた。
 販売の流れは、初め順調であったが、第一次大戦終了後、景気が次第に低迷し始めたころ、上常呂土功組合の灌漑溝が開通したため流送が不可能になった。やむを得ず原木を汽車輸送に切り替えたところ輸送費がかさみ採算上不利となって来たので三井物産は大正十四年野付牛工場を撤去して、資源の豊富な置戸、留辺蘂へ一部委託の形で分散した。かつて町の代表的企業の一つであった三井工場も約十二年でその姿を町から消し去った。」
 野付牛は常呂川、無加川の合流地点で、流送した原木が集積しやすい地点でしたから、三井も工場を設けたということです。それも農業用の灌漑溝が整備されることで不可能になって「採算が合わない」というで、大資本が簡単に撤退するあたりは、今も昔も変わりませんね。
 留辺蘂では、昭和に入っても温根湯の無加川上流辺りで原木を流送していたことは、平成15年発行の『目で見る 北見・網走・紋別の100年』に、昭和5年の写真があるので明かです。この留辺蘂の流送については、平成13年に菅原政雄先生がまとめた『留辺蘂のあけぼの』第四話「アバを切れ!—原木流送の時代」に詳しく書かれていますので、ご一読ください。(続く)

《中庭だより》
☆『北見現代史』の試刷りが出来上がり、正確を期したいので関係各部課に監修をお願いしたところ、お忙しいのに目を通して、色々なご指摘も頂き、誠に感謝しています。
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