ヌプンケシ135号

北見市総務部 市史編さん主幹  〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-25-1039

市史編さんニュース NO.135
 タイトルヌプンケシ
平成19年1月1日発行

賀正 本年も旧年に倍しまして、よろしくご支援ください!!
  この1月31日には、『北見現代史』発刊予定です。ご購読もよろしくお願いいたします。

◎昔、正月は馬橇の初荷から
 お正月ですから、昔話でもしましょうか。筆者の実家は街中の商店でしたから、子どもの頃、50年位前の正月の思い出に「初荷」があります。正月の二日にもなれば、街中を荷物を満載した馬橇が鈴の音も高く大正7年頃駅前にあった運送会社の写真、シャンシャンと走り回り、その荷物の上に若い衆達が乗って、景気づけに石油缶を棒切れでガンガン叩き、商店の店先に横付けし、荷を降ろして、正月を祝い一年の繁栄を願って、手締めをするというにぎやかさで、正月気分を一層たかめました。それがいつしか、馬橇がトラックになり、こうした光景は見えなくなりました。写真は大正7年(1918)頃、駅前にあった運送会社から、初荷の馬橇がこれから出発しようとしている場面です。
◇開拓は馬から
 開拓の昔はトラックなどなかったのですから、輸送は全部馬に頼っていました。『歴史の散歩道』は次のように書いています。「明治二十九年の雪がとけたころ、野付牛にたくさんの馬が集まってきました。それは翌年に屯田兵が入ってくるので、兵屋を建てる材料や食料と日用品を運搬するためでした。このころは、物を運ぶのに馬車もなく馬だけが唯一の頼りです。/一時に三〇〇戸も屯田兵が入ってくるので、建築用の木材や必要品を運ばなければならないのに馬の場合、駄鞍(だぐら)といって一頭の馬の背中から両脇に分けて俵や荷物を綱等で下げて運ぶ方法なので、米俵では一頭で二俵しか運べません。短い期間に大量の米俵を運ぶのに十数頭の馬でなければ運びきれません。/しかし、一頭一頭に馬追いがついたのでは大変な人数が必要になります。当時、それだけの馬追いが野付牛に集っていなかったし、それに一頭に一人の馬追いがついたのでは不経済なので十数頭、時には二十数頭を一人の馬追いが馬をひき連れて運びました。/初めは馬の尻尾を後の馬の手綱に縛りつけ、次々とこうしてつなぐと、馬追いが先頭の馬さえ手綱をとれば良いことになります。これを当事駄送(だそう)といいました。この馬の行列が次々と大名行列のように野付牛と網走間の山道を通って、壮観だったそうです。」
 道路が刈り分け道で地盤が弱く、春先や大雨が降ると泥濘になり、馬車は車が埋まり、使えなかったそうです。馬車が使用されるようになるのは、道路が整備されてからでした。この馬車をひく馬を輓馬(ばんば)といいます。
◇馬糞風
 私が小学校の頃、昭和30年代前半では、自動車はまだ少なく、現在でも東南アジアで活躍しているオート三輪車が幅をきかせ、日通では荷馬車が貨物運搬の主役でした。荷馬車も輓馬も子どもの目線から見るとすごく大きく、それを巧みに操る御者のおじさんは格好よかったです。荷馬車をバックさせるのに、「バイキバイキ」と馬に声をかけ、手綱を振るっていたのを思いだします。子ども心に「馬は英語が分かるんだ!?」と感心したものでした。
 馬は場所におかまないなく、排泄をしました。その小便などは、盛大で未舗装の道路に穴があくほどで、筆者などは目を丸くして見た記憶があります。だから路上に馬糞がころがっているのが普通のことで、子どもたちは馬糞を踏むと「背が高くなる。」とか、「足が速くなる」と言いあったものです。馬糞はパラパラしていて、あまり不潔感はありませんでした。
 春先になると「馬糞風」が吹きました。これは冬の間に馬糞が冷凍乾燥され、未消化の繊維がバラバラになり、それが雪解けと共に顔を出し、土埃と一緒に舞い上がる春風のことです。
◇黄金馬車
 黄金馬車というと聞こえは良いのですが、実は人糞=黄金を運ぶ馬車のことです。昔は汲み取り式の便所がほとんどでしたから、便槽から長い柄の柄杓で屎尿を汲み取って肥タゴに入れ、狭い路地から道路の馬車まで天秤棒で運んでいました。馬車には木製の大きな容器があり、そこに屎尿を流し込んでいました。木製ですから、隙間からぽたぽたと液体がこぼれていました。汲み取りがくると、一日中家の中が臭くて、冬であればストーブに醤油をたらして焦がし、その匂いでごまかしたりしました。冬には黄金馬車は、木製タンクが橇に移しかえられて黄金橇になり、その滑った跡には黄色い液体の筋が幾本もありました。
 この黄金馬車も、バキューム・カーの登場で消えてなくなりました。長いホースで屎尿を吸い取るバキューム・カーは便槽からタンクへ直結していましたから、臭さ・早さの点で黄金馬車より何十倍も優れていて、画期的でした。
◇北見での輓馬競争の始め
大正12年の市内地図 輓曳(ばんえい)競馬が、消滅せずに帯広で生き残ることになって何よりでした。この輓曳競馬を北海道市営競馬協議会が取り仕切る前は、言わば草競馬のようなもので、農家の馬自慢の輓馬競争でした。私が子どもの頃、農閑期、農家のおじさんが、農道で農耕馬に橇を曳かせて輓馬競争の練習をしていたのを覚えています。
 北見での輓馬競争の始まりを、清水昭典先生は『ふるさとの歴史を訪ねて』で次のように書いています。1928年=「昭和三年七月十二日、現在のばんえい競馬の起源ともなる役馬能力品評会という協議会がおこなわれました。三十二頭の馬が砂を詰めた俵を積載した荷馬車をけん引。野付牛公設グランドをスタートし、大通り、仁頃通りをのぼって中央通りを下る三千七百四十メートルを疾走。人びとは一日作業を休み、弁当を持ち、家族、部落ぐるみで応援に熱狂しました。」 
 右上の地図は、大正12年の市内地図です。公設グランドは、今の郵便局一帯です。そこから32台の荷馬車が中央通りを駆けおりて、大通りを走り、仁頃通りを駆け上るというのですから、映画『ベン・ハー』並みといきませんが、想像してもすごいゲームですよね。野付牛町民が熱狂したのもわかります。(つい馬づくしになりましたが、今年もよろしくお付き合いください。)

《中庭だより》
☆『北見現代史』は年末ギリギリまで校正につぐ校正で、山下調査員、臨時職員の遠藤さんにはお疲れさまでした。少しでも間違いのない内容で出版するには、それだけの労力がいるということです。発刊が待ち遠しいような、不安なような複雑な気持ちです。
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