ヌプンケシ136号

北見市総務部 市史編さん主幹  〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-25-1039

市史編さんニュース NO.136
 タイトルヌプンケシ
平成19年1月15日発行

◎「北の天」という北見の地酒を知っていますか?
 忘年会から、新年会とお酒を飲む機会が続いていることと思います。
 今号は北見のお酒に関してのお話をレポートしたいと思います。ところで、見出しに書いた「北の天」という地酒を知っていますか。根室の有名な地酒「北の勝」は知っていても、この「北の天」は知らない方が大多数でしょう。これは北見に戦前あった地酒の名前なのです。
◇馬場酒造
 昨年9月に市民の方からお電話があり、「小清水の親戚の家を解体していたら、『馬場酒造、野付昭和8年の町内地図牛』と書いた算盤が出てきた。ついては、どう処理したら良いか?」という問合せでした。筆者は大変珍しいものなので、北網圏北見文化センターへの寄贈をお願いしました。
 その馬場酒造店が醸造していたのが「北の天」だったのです。どこにあったかと言えば、右の昭和8年(1933)の町内地図で見ると、農事試験場支場の上に「馬場酒造店」という文字が見えます。現在のとん田東町あたりでしょうか。
 同じ昭和8年に発行された『野付牛名鑑』に「主なる醸造場」という項目があり、この酒造のことが次のように紹介されています。
 馬場酒造場 野付牛オンネメーム 電話二六三番
 大正七年オンネメームにおいて創業爾来馬場昌久氏経営の衝に當り資本金二十万円にして工場及気罐、電動機、水圧機、蒸気火当釜、輸送ポンプ等全て最新機を具へその醸造高は千石を突破し北見一円は勿論釧路、帯広等各地に出張所を設け営業統制の基に着々地位を固め拓殖の進展に伴ひ年々増石増石を計り製品は北ノ天を産出しすでに一般愛酒家の認むる處となり優良酒として好評を博しつつあり/製品名 北ノ天

◇経営者=馬場昌久
 経営者の馬場昌久については、昭和46年(1971)北見新聞発行の『北見の今昔』の中で次のよう馬場昌久氏写真に記されています。「明治26年(1893−引用者)12月23日父安太郎の長男として福井県南条郡神山村に生まれ、県立福井中学校を経て早大商科を卒業後、小樽で味噌醤油醸造業を営む家業に従事したが、大正7年(1918−引用者)6月北見に移住、銘酒『北の天』醸造元、馬場酒造店を開業したが昭和17年(1942−引用者)廃業、東京に転住した。この間釧路、帯広、留萌、遠軽、美幌に各支店を設け、隆盛を誇った。また北見酒造業組合長、野付牛警防団長、野付牛魚菜市場社長など各種公職を歴任した。」
 昭和53年(1978)1月1日付『北見新聞』に前掲の昭和八年の地図が発見されたと掲載され、その頃の様子を当時北見経済界の重鎮であった辻丸政雄氏が語った記事がありますが、そこに次のような記述があります。「経済界を二分していたのが、“名市長”といわれた伊谷半次郎氏(商工会会頭)と馬場昌久さん(消防組頭)。馬場さんは昭和十一年(17年が正しい−引用者)に東京へ移り軍需工場を経営したが、ご両人とも気風のいい人で、夜のマチでも大変なもてようでした。馬場さんは、市場の社長を努めた人で、ボクも消防小頭をやらせてもらいました。」
 平成2年(1990)発行の『北見の消防』には、そのことが次のように書かれています。
               馬場昌久は福井県南条郡神山村出身で、明治26年12月23日生まれ。早稲田大学商科卒、大正7年6月野付牛昭和15年発行の躍進北見掲載されたもの町に移住、オンネメーム(現屯田東町)で馬場酒造店を開業、銘酒『北の天』を醸造し、その販路は道東全体に及んだ。昭和初期には、伊谷半次郎と共に、町経済界の双璧と言われた。
 馬場昌久が伊谷組頭時代に初めて消防入りをして第4部小頭になったのは、大正12年5月で29歳の時である。そして、大正15年6月には第4部長であった中島権太郎の組頭就任と同時に第4部長に昇進し、それから中島組頭の後を継いで、第5代組頭になったのは昭和12年8月10日、この時43歳であった。
馬場は、野付牛魚菜市場社長でもあった関係から、馬場の組頭就任で欠員となった第2部小頭に、同社の辻丸政雄が就任した。
 昭和14年4月、警防団の発足によって初代の警防団長になったが、翌15年3月にその職を辞し、17余年にわたる消防生活を終えた。時代も昭和15年に入ると、戦争の長期化で多くの生活物資について切符制が採用になり、5月には料理屋でも『お酒はお1人2本までで、ご辛抱』という時世になっていた。馬場は、長期化する戦局の中で、酒造業に見切りをつけ、昭和17年に野付牛を離れ、東京に転じて軍需工場経営に方向転換を図ったのである。(上の写真は、昭和15年発行の『躍進北見』に掲載された醸造場です。)

 ですから、「北の天」は昭和17年で幻の地酒になったわけです。どんな味がしたのでしょうか。それにしても、物資統制で先が見えた醸造業を止めて、上京して軍需工場に転じるとは、馬場は商才にたけていたようですね。しかし、その後の馬場の消息を伝える資料はありません。東京大空襲など戦争と戦後の混乱を何とか乗り越えることができたのでしょうか。
◇野付牛の酒造の始まりは?
 ところで、野付牛での酒造の最初はどうなっているかというと、草分けの屯田兵で郷土史家であった池田七郎が新聞『家庭北見』に掲載した回顧録に、明治30年(1897)、屯田兵と共に野付牛に入り、市街地に住み着いた民間人の中に「酒造業 武藤半兵衛」という人がいたことを、次のように書いています。「武藤半兵エ氏は野付牛初代の村総代人として、北光社の澤本楠弥さんと共に活躍した人だったが、本覚寺の下で酒造場を設け(カヤ葺だった)たが、之も亦三十二、三年頃までに退去して仕舞った。」そのお酒はどんなものだったのでしょうね。
 昔から続いている市内の酒造業者は山田酒造で、大正3年(1914)の創業です。当時の場所は旧市街、現在の桜町で前に「100満ボルト北見店」があったところです。長い間、大きな煙突が駐車場に建っていたのは、その酒造場の名残りだったのです。大正6年に発行された『北見國野付牛要覧』によると、清酒550石つまり一升瓶換算で5万5千本を生産、酒の名前は広告を見ると「富士」「しら雪」とあります。昭和8年時点で「鴻ノ舞」「開拓」を醸造、現在販売しているお酒は「摩周」「寒菊」などで、新十津川町の金滴酒造に製造を委託しています。

《中庭だより》
☆12月29日、坂本直寛のお孫さんにあたる土居晴夫氏から『龍馬の甥 坂本直寛の生涯』(リーブル出版)という本が当室に届きました。坂本直寛の生涯が分かりやすく紹介されており、一読に値します。興味のある方は中央図書館に寄贈されていますので、ご覧になってください。
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