ヌプンケシ138号

北見市総務部 市史編さん主幹  〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-25-1039

市史編さんニュース NO.138
 タイトルヌプンケシ
平成19年2月15日発行

◎開基をめぐって

◇『北見現代史』刊行しました
北見現代史写真 2月2日付、北海道新聞の右の写真のように『北見現代史』も何とか刊行することが出来て、担当としてホッとしたところです。しかし、まだ販売という大きな仕事が残っています。1冊1万円(税込み)で、市内書店で販売していますので、ご購読ください。
 前回の市史がA5判でしたので、今回の『現代史』はA4判ですから、前回市史2冊分をちょうど1冊にしたようなもので、重さも3.6キロになりました。定価では『北見市史』上巻8,500円、下巻1万円でしたから、比較すると大変安いのでは?などと勝手に思っています。
 さて、この『現代史』は当初、平成18年が旧・北見市の開拓110年に当たるところから、平成13年度に平成18年度を刊行年度として、その記念事業の一環として計画されたもので、編さん作業の途中、全く予定していなかった合併がありました。ですから、『北見現代史』といいながらも、実態は旧・3町を全く除く、旧・北見市の戦後を中心とした『現代史』ということになってしまいました。その点は、ご賢察、ご寛容願いたいと思います。
◇「開基」か?「開拓」か?
 ところで、旧市での「北見市開基100年記念事業」は平成8年(1996)の7月15日=(野付牛外一箇村戸長役場の開設日)に開幕したのでしたが、この開催日設定については相当激しい議論があって、この日に落ち着いたと当時の関係者から聞いています。
 それまでは屯田兵が野付牛村に入地した「6月10日」を旧・北見市の開基として、戦前から開基祭が行われてきましたから、屯田兵関係者はこの日が「開基100年記念事業」の開催日になるのが当然だと考えていました。
 これに対して、北光社移民団の関係者からは「屯田兵中心はおかしい、北光社移民団が最初に入地した『5月7日』にすべきだ。」という意見が以前から出されていました。
 これら二者の考えに対して、「開基」の意味は辞典によれば「物事のもとを開くこと」ですから、和人が北見に開拓に入ったことだけを取り上げるのではなくて、野付牛に先住していたアイヌ民族のことも視野に入れることが重要ではないか、との問題提起もありました。つまり、正確には和人の「開拓100年」であって、野付牛本来の「開基」ではないということでした。
 これら三者の考えを汲んで、平成5年6月1日、北見ふるさと100年委員会では「北見市開基100年記念事業基本構想」を決定しました。その「I.はじめに」で、次のような文言に表現されました。
 「私たちのふるさと北見には、一万数千年以上も昔から、先土器文化の人々が住みはじめ、続いて縄文文化から擦文文化までを担う人々が生活し、その証がいくつも残されています。/これに続くアイヌの人々は、この地に永く暮らしを営んでいました。/その後、明治24年(1891年)には、中央道路(旭川〜網走間)が開削され、翌年に駅逓の設置、明治30年(1897年)になって、北光移民団、屯田兵がそれぞれ入植し、この年の7月15日、野付牛村戸長役場が置かれました。/平成8年(1996年)は、それから100年目にあたります。/この地に自然と調和共存して生きてきたアイヌの人々、そして、北の大地に理想をかかげて入植した北光移民団、任務を担って原始の森をきり拓いた屯田兵、こうした人々の、筆舌に尽くし難い幾多の困難に耐えぬいた強靭な精神が今日の北見市の礎となったのです。(後略)」
 この論議以後、「開基」とは言わずに「開拓」何年という表現の方が一般的に多くなりました。
◇旧3町の「開基」
 合併した旧3町の「開基」はどうなっていたでしょうか。
 旧・常呂町の開基を「網走支庁管内市町村行財政概要」では「明治16年4月1日常呂村に、常呂郡を一円とする 常呂村外6ケ村戸長役場が設置されたことに始まる。」としています。(ただし、当ニュース91号で指摘したとおり、この戸長役場が開設されたのは4月1日ではなく、12月1日からが正しいことは北海道立文書館の回答で確認しています。また、表記は常呂外六箇村戸長役場が正しく、常呂の次に「村」は要りません。)いずれにしろ、常呂外六箇村戸長役場開設の明治16年(1883)12月1日が、当市行政の起源の日であることに間違いありません。
 次に歴史が古いのは旧・留辺蘂町で、同「概要」では「開基は、中央道路(網走〜旭川間)が開通してから4号5号の駅逓が開設された日、つまり4号5号の駅逓が開設された日、つまり明治25年(1892年)10月1日とされている。」としています。
千葉新太郎写真
千 葉 新太郎

 駅逓とは当ニュース92号にも書いたとおり、「人馬車継立所」ともいい、旅行者の休憩宿泊と、荷物・郵便等を馬で次の駅まで継ぎ送りする施設で、宿屋と郵便局をかねたようなもので、明治24年の中央道路開削と併行して、4〜5里おきに置かれ12か所に設置されましたが、管理する人が配置されて開業するまでは無人でストーブや鍋を備えて、利用に供されていたそうです。
 留辺蘂の駅逓については、『新留辺蘂町史』によると明治25年3月に北村七平という人が取扱人に任命されて名義人となり、実際は千葉新太郎という人がその秋に入地して4号駅逓取扱人代理として業務を行い、明治28年(1895)に同人が正式に取扱人の任命を受けた、とあります。この千葉新太郎と家族が、留辺蘂で草分けの、最初に住み着いた人たちであったわけです。
 当時の様子は、平成13年に発行された菅原政雄著『留辺蘂のあけぼの』「第一話 ルベシベの草分け」に物語として紹介されていますので、図書館ででも読んでみてください。
 旧・端野町は同「概要」で、「開基は、屯田歩兵第4大隊第1中隊100戸(第1次)が入地した明治30年6月7日とされている。」とされ、旧・北見市とほとんど同じです。奥地へ入る順序として旧・端野町が旧・北見市よりも、屯田兵の到着が3日早かったということです。
 以上のように、旧1市・3町の「開基」いずれも北見国の開拓の発展過程を反映して、それぞれの歴史経過で設定され親しまれてきましたので、どれも大切な日だと筆者は考えます。
 ですから、これからは新・北見市の「開市」日、平成18年3月5日を起点として、全市で位置づけていくのが妥当だと思います。ちなみに平成27年が新市「開市10年」となります。

《中庭だより》
☆『北見現代史』刊行したのは良いのですが、保管場所で頭を悩ましています。何しろ大きさがA4判で、厚さがケース入れて約6.5センチになります。当面は業者の方で保管してもらいますが、本日、庁内配布分150冊が当事務室に運び込まれます。どうなるんでしょう。(溜息)
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