ヌプンケシ140号

北見市総務部 市史編さん主幹  〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-25-1039

市史編さんニュース NO.140
 タイトルヌプンケシ
平成19年3月15日発行

◎滝野市長とオートバイ
『北見現代史』が出来て、戦後歴代市長さんに贈呈する作業を進めていたのですが、滝野市長のご遺族がわからず、困ってしまいました。滝野氏のお子さんは一人娘で、日赤病院のお医者さんと結婚されて、北見から転出されたとのことでした。それでも何とか、ご親戚の方の紹介で、本州にお住まいのお孫さん(女性)に『現代史』をお送りすることが出来ました。滝野啓次郎氏写真
◇滝野市長のこと
 そこで今号は、趣味人であった滝野市長をレポートしてみたいと思います。
 滝野啓次郎氏の略歴は、次のとおりです。明治32年(1899)5月10日、父=常次郎、母=たみの長男として旭川に生まれ、大正5年(1916)12月野付牛町に移住、父が菓子問屋を大通東3丁目に開業。ご本人も家業を継いで昭和15年5月北海道菓子卸売協同組合常務、23年同組合理事長。21年北見信金専務理事、25年北宝食品(株)社長、30年6月北見商工会議所会頭に就任。会頭として、「北見会館(現在の経済センター−引用者)の建設にあたっては、寄付集めに身を挺し、率先して百万円を寄附、昭和三十六年建設費九千万円を調達、これを完成した。」
 そして、伊谷市政の後継として、昭和38年(1963)に市長に当選したものの、対立候補の宇佐美福生氏と19票差というもので、市長就任期間は、昭和38年(1963)5月1日から昭和42年(1967)4月30日までの一期でした。それで、どうも滝野市長は市民に印象が薄いようです。
 「当選後、氏は北見工業短大に佐山総平学長を訪問、短大の四年制大学昇格に政治生命を賭けることを訴え、学長を励ました。その頃文部省側では『法的にやや変則であり工業教育としても不十分な工業短大は、できるだけ高専に移行させる方針』をとり、佐山学長に対し、一校だけ残っている北見も他の短大のように高専に移行することを示唆していたのであった。この不利な状況の中で、氏は杉野目晴貞北大学長と心を合わせ、昇格運動に消極的であった町村金五道知事を説得『北見工業短大昇格期成会』の会長を引き受けてもらうことに成功、この仕事に自己の全てを注ぎ込み、市長の任期が終る四十一年四月、四年制大学昇格が実現した。」
 市政運営も高度経済成長期になる時代の変わり目で、それまで親睦団体であった市職員の組合が、労働運動の組合として脱皮する時期でもありましたから、伊谷市政のワンマン経営からの脱却が、滝野市政の大きなテーマであったとも思います。
 その滝野氏の人柄について、清水昭典先生は次のように述べられています。「伊谷氏は、政敵は徹底してこれをたたき、支持者を厚遇、北見工業短大、芝浦製糖などを劇的な手法をもって誘致、豪腕と策略をもって知られるカリスマ型の権力者であった。/これに対し滝野氏は、豪放で、自己を犠牲にしても誠実に友人の面倒をみる取りまとめ型の人物であった。森永製菓の総代理店である卸売商の二代目として育った滝野氏は、恵まれた境遇ゆえに、人に立てられることはあっても権力欲は淡く自由な境地を楽しむ趣味人であった。二十代の頃は、弘仁堂薬局主の松本倭左男氏、写真館主の加藤操氏らと暗箱カメラに凝り、当時高値の花といわれたハーレーダビッドソンのオートバイを駆って、阿寒湖畔をまわって釧路までオートバイ旅行を楽しみ、レンガ造りの屋敷内は、至るところ西洋の骨董家具を配置していた。」(以上の引用は全て『ふるさとの歴史を訪ねて』から)滝野氏は、昭和48年(1973)1月13日に逝去されました。
◇野付牛のオートバイ族
 滝野氏とオートバイの関係は、昭和61年(1986)発行『歴史の散歩道』の「自動車の草分け」の項に見つけることができます。「近頃、暴走族というのが若者達の間に流行しています。しかし、昭和の初め頃これらに劣らない勇敢なオートバイ族が存在しました。松本倭左男さんがその中の一員です。松本さんは現在八一歳の高齢ですが、三十歳台の血気盛んな頃の昭和二年(1927年−引用者)、上村専次郎さんと二人してオートバイを駆って遠軽を通って北見峠を越え、上川を経て層雲峡へ行き、温泉に車をおいて黒岳へ登り、山小屋で一泊して翌日旭岳の頂上を極めてから下山して帰途につきました。/昭和四年の八月、松本さんはトライアンフ二五〇CC(英国製)、上村専次郎さんはトライアンフ五〇〇CC、滝野啓次郎さんはインデアン七五〇CC(米国製)、鶴原才助さんはエフ・エヌ三五〇CC伊国製)の四台のオートバイを連ねて、阿寒湖畔を経て釧路市までドライブ旅行をしました。/一行がオートバイを連ねて釧路市街に入った時、釧路の人々はこのさっそうとした姿と物珍しさでびっくりしました。土地の新聞社は早速これを取材して、大きな見出しでその壮途を掲載したそうです。一行の帰途は川湯を経て小清水、古樋を通って網走回りで無事野付牛へ帰って来ました。」
 自転車さえ高価な時代に、外国製のオートバイを乗り回していたのですから、滝野氏たちは当時流行の最先端をいく若者たちでした。釧路の人たちが目を丸くしたのも、納得できます。
◇『釧路新聞』で分かったこと
 最近も釧路図書館へ行って、戦前の『釧路新聞』のマイクロ・フィルムを閲覧してきましたが、そこで昭和3年(1928)7月22日付『釧路新聞』(夕刊)に、「爆音勇ましく阿寒突破/北見釧路連絡のオートバイ旅行」という見出しと、次の記事を発見しました。
 「野付牛オートバイ倶楽部によつて企てられた野付牛 釧路間約百哩のオートバイ旅行は見事に成功して本日午前十一時二十分一行四台のオートバイは爆音高く市内に飛び込んだ。一行は滝野啓次郎、上村専治郎、松本伊佐男、鶴原才助の四君だが一先づ○○○○に落着いたところを訪ひ(以下、数行不明−引用者)/に抜け阿寒湖畔に着いたのが午後二時、此の間の行程四十八哩九分、其の夜は同所で明かし本日六時半宿を出でゆるゆる湖畔を一周、心ゆくばかり阿寒の絶勝にひたり一路釧路に把手とつたわけで、其の間に之れと云つてはお話するやうな事もありませんが、ただ一日目の野付牛から阿寒までの道路の悪いのにはすつかり閉口しました。大きな石に乗り上げて見たり、大木に(以下、数行不明−引用者)/帰りは明朝になるか其れとも明後日になるか未だ確定はしておりませんが帰りの道路は少し変えて釧路より川湯に出て同所で一泊の上 翌早朝屈斜路から斜里山道に抜け一気に帰○する考へです。」(○は不明字)
 この記事で松本氏の証言の裏づけが取れ、「野付牛オートバイ倶楽部」4人のメンバーは、昭和4年の8月ではなく、昭和3年7月21日に野付牛を出発して、その日は阿寒で一泊し、翌日7月22日に釧路に着いたことがわかりました。また、『釧路新聞』にある名前が少し違うのは新聞記者の聞き違い、思い違いの結果でしょう。同紙の別の紙面に「阿寒越の自動自転車隊」という説明入りの写真が掲載されていますが、残念ながら不鮮明で滝野氏の愛車がハレーかインデアンかは、確認できませんでした。しかし、この点は松本氏の記憶の方(インデアン)が正しいように思います。そして、大変な悪路を走破した、この旅行のリーダーは記事の人名順から見ると、松本氏ではなくて、滝野氏だったのではないか、と筆者は推測しています。

《中庭だより》
☆前回、本別空襲にからんで当市の若松上空を米艦載機が飛んだ話を書きましたが、その証言者が現れました。2月26日に市史編さん委員会を開き、その後の懇談で若松出身の高橋幸三委員が「私も見た。」と証言してくれました。これでまた、北海道空襲の一面が見えた思いです。
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