ヌプンケシ142号

北見市総務部 市史編さん主幹  〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-25-1039

市史編さんニュース NO.142
タイトルヌプンケシ
平成20年5月1日発行

◎北光社初代社長 坂本 直寛(1)
 本紙は諸般の事情で1年余休刊しておりましたが、今月から再刊することにしました。
 今号は141号に引続き、北光社初代社長=坂本直寛についてレポートしてみたいと思います。
◇獄中で開拓事業を志す
明治22年頃の直寛写真
▲明治22年頃の直寛

 明治20年(1887)12月、「言論の自由・地租軽減・外交失策の挽回」を求めて高知から上京、活動中であった坂本直寛は同志と共に保安条例で逮捕、投獄され、明治22年の「大日本帝国憲法」発布の大赦令まで獄中にありました。彼は獄中で読んだ『訓点舊約全書』(漢訳の旧約聖書)の「出エジプト記」等に啓示を受けて、開拓事業を志すようになり、当初は榎本武揚らがメキシコ開拓を目指した日本殖民協会に参加しました。しかし、これは明治27年(1894)の日清戦争勃発とメキシコ現地の政情不安のために実現しませんでした。
 この間、明治23年(1890)に直寛は中澤翠と再婚しますが、翠は明治28年結核で病死しました。溺死した前妻=鶴井との間に娘が二人、翠との間に幼い男子二人がいて、家庭的に大変だったためでしょう、子連れの坂野鹿と明治29年頃に3度目の結婚をしました。


◇クンネップ原野探検
 結局、直寛はロシアの南下政策への危機感と片岡健吉をはじめとする友人の勧めもあって、北海道の開拓を決意し、明治28年から計画を練りはじめ、明治29年(1896)5月には現地調査のために高知から澤本楠彌・西原清東と共に北海道にやってきました。初めは天塩川流域原野への入植を想定していましたが、そこが宮内省御料局の用地に編入されることになったので、土佐出身で札幌農学校第1期生の道庁技師内田瀞(きよし)の助言でクンネップ原野(現・北見市の一部と訓子府町)を調査することにしました。
 「八月二十日に札幌を出発、浦臼の聖園農場を経て、クンネップ原野に向った。/一行は聖園農場で農事指導をしていた前田駒次を誘い、神居古潭で人夫と馬を雇い、二十二年に開通した石狩道路(札幌—旭川—上川)、二十四年に開通した北見道路(上川—網走、中央道路ともいう)を馬に乗って行った。」「一行が進む道路は、国道とは名のみ、丈余の草が生い茂り、両側は鬱蒼たる大密林であった。直寛らは数日を費やして相内駅逓にたどり着き、武華川を渡ってクンネップ原野を見下ろす高台に出た。/このあたりは行政区上、常呂郡野付牛村だが、アイヌの数戸があるのみで、寒村どころか無人の境であった。」
 直寛は『予が信仰之経歴』に次のように記しています。「〈原野は、南北は平坦で一里余、東西八里余、あるいは樹林、あるいは草原があり、常呂川と武華川との中間に横たわっている。時は秋、原野に満つ草花は錦を敷いたようで、風景は実に美しかった。私たちは馬で原野のあなたこなたを探検した。/鞭あげて野辺はせ行けば黒駒の ひづめの風に萩が花散る/原野の地形は四方山に囲まれ、わずかに東北の一隅のみ開け、武華川を隔てて対岸の屯田兵村と境を接している。全野の風光は実に明るく、人に凄まじさ、わびしさを感じさせないので、移民のためには好都合だと思った。今のところ交通はたいそう不便であるが、将来鉄道が敷設されたら便利になるはずで、後に池田、網走間に敷かれる鉄道線路は、このクンネップ原野を貫通する予定である。/人跡未踏の原野において、拓殖事業を経営する困難は、もとより覚悟の上である。私たちは原野の草むらにひざまずいて神に感謝し、合わせて将来について祈った。〉」
(以上の引用は土居晴夫著『坂本直寛の生涯』より)
◇合資会社 北光社設立
 9月5日、直寛は網走から「今回の貸下地は地形広大、地味良好にして、開墾容易なる屯田地に劣らず、網走へは十二里、其間車馬通じ、来春は郵便電信局隣地へ建設の筈なり」と打電しました。その頃、高知では出資者が会合し、坂本直寛を社長に、澤本楠彌を副社長にして北光社を設立する運びとなり、移住民の募集を早速開始、翌明治30年(1897)1月6日、高知において設立総会が開催され、「北光社規約」(定款)と「北光社移住民規則」を制定しました。
 「北光社規約」は第1条から第15条までで構成されていますが、次に要点を記しておきます。 
 第1条において北光社の目的が拓殖事業であることが謳われ、第3条において資本金を9万円(実際は7万5千円に減額)として出資額は社員の申出により定め、明治30年3月〜33年3月までの7期に分納することとしました。なお、第6条で社員には出資金5百円毎に一個の投票権が与えられるとしました。
 第4条では役員として、正副社長各一名、理事、事務員各若干名、農業教師、臨時雇員を置くとしています。そして第5条でその事務分掌を定めています。
 第7条で年一回の定期総会は総社員の出席は要せず、正副社長と代議員3名構成、開催されるとし、その代議員には各40個の投票権が与えられるとしました。その代わり、臨時総会では総社員の出席を促すとしています。
 第9条で役員並びに雇員にはその地位の応じた月俸が支給され、第12条では毎年の収支決算後純益がある場合は賞与が与えられるとしました。
 10年後の事業成功の報酬として、第10条で役員に対して役に応じて耕地を分与することとし、第13条では社員に対して会社が所得した耕地・林地・薪炭用地他の資産一切を計算して出資額で分配することとしていました。このように北光社は慈善団体ではなく、会社である以上、利潤が求められていたのです。
 「北光社移住民規則」では、第1条で移住民を「独立移住民」と「補助移住民」の二種に分け、前者は移住資金百五十円以上を携帯して渡航費・生活費を自弁する者としており、後者は従来農業を営んできた者で、会社から初年にかぎり生活費、必要物品が貸与されることとしていました。第2条では独立移住民、補助移住民の別なく未墾地5町歩を配当し、それを3ヵ年で開墾することとし、第3条で開墾9年目に独立移住者には開墾地の3分の2、補助移住者には3分の1の所有権が認められることになっていました。あとは会社の所有というわけです。第4条では、3年目より一反歩あたり独立移住者は66銭7厘、補助移住者は1円の小作料を納める事としました。キリスト教の影響が反映されて特徴的なのは第11条で、農場での姦淫、飲酒、賭博類似の遊戯を禁じ、何度も違犯して改悛の見込みのない者は、独立移住者では土地配当の取消し、補助移住者にあっては食料居小屋農具等を返還させるとしています。第12条でも、移住民は艱難辛苦、隣保互助、勤勉力行、質素倹約、「一身上ノ品行ヲ謹ミ恒ニ神明ヲ畏敬シ国ヲ愛シ人ヲ愛スルコトヲ務メ知徳ヲ開発スヘシ」ことが求められています。これでは移住民でなくても息がつまりそうですね。この規則は明治31年に、一部改正されています。(続く)
《中庭だより》
☆4月1日付人事異動で、幾島正章に代わって小野寺雅秀が市史編さん主幹となり、また山下郁夫嘱託員が3月末で退職し、田丸誠が配置になりましたので、よろしくお願いいたします。
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