ヌプンケシ143号

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市史編さんニュース NO.143
タイトルヌプンケシ
平成20年5月15日発行

北光社初代社長 坂本 直寛(2)

◇直寛、北海道へ
 直寛の自伝『予が信仰之経歴』によれば、直寛は明治30年(1897)3月6日、北海道に向け高知を出発、11日須崎港から事務員二人と空知へ行く移民を引率して乗船、途中徳島、高松でも移民を乗せ、門司を経由して日本海を北上、24日に小樽に着きました。26日、移民を汽車で空知に向かわせ、直寛は教会で説教を行うために札幌、函館に立寄り、4月5日函館から網走に向けて出港しました。日本海からオホーツク海に入って流氷に阻まれ、4月11日稚内に戻り、4月18日に紋別に着き、4月20日網走に到着して北光社事務員らの出迎えを受けました。そして、4月30日には澤本楠彌が率いる北光社第二次移民団を網走で迎えたのでした。(この移民団が網走に到着した日については、後述するように5月1日とも、2日ともされていますが、前回『北見市史』上巻の指摘どおり、どれも確証はありません。)
◇ノカナンにあった北光社第二農場
移住民募集広告  (『土陽新聞』  M.29.9.3)
移住民募集広告『土陽新聞』明治29年9月3日付

 さて、直寛が最初引率してきた移民は空知の何処にいったのでしょうか。彼等は北光社第二農場のある空知郡歌志内村字ノカナン(現・芦別市野花南町)に向ったのでした。(このノカナンとは、角川日本地名大辞典によればアイヌ語で「機弓の糸を置く所」という意味だそうです。) 
 高知で発行されていた『土陽新聞』の明治29年(1896)9月3日付に右の「北海道開墾地/移住民募集廣告」記事が載りました。そこにはクンネップ原野の他に「石狩國空知川原野」50万坪と書いてあります。
 この農場は聖園農場を開いた武市安哉(たけちあんさい)の後継者であった土居勝郎が、明治28年に国有地の貸し下げを受けて聖園第三農場として開いたものの、経営困難のために明治29年直寛が聖園農場を訪問した際に北光社に譲渡したものと見られています。
 平成6年(1994)発行の『新芦別市史』第一巻によれば、直寛と一緒に来道した移民は27戸106人で、この他3月10日に6戸21人、4月16日に4戸16人が小樽港に着き、合計37戸143人の移住が確認され、明治30年全体では50戸が入植したようだとしています。そして同年9月に、直寛はこの農場を視察に訪れています。
 「明治三四年頃に北光社農場(第二農場のこと−引用者)に五〇戸の小作がいたが、そのうち八戸が独立移住者、四二戸が補助移住者であった。/ただし明治三〇年に堅田十蔵・喜之助が招致した二〇余戸の場合は、一年間は食料を支給し、開墾地は五年目より三分の一を開き分けとして与えられるという別の規則であったとされている(『七十年の歩み』)。/北光社は起業後九年目に土地分与をすることになっていたが、その関係もあったのであろうか、明治四〇年頃に『堅田喜之助が交渉してその土地を買受け、小作人に分配、全部自作農になったという』(前掲書)。」(以上『新芦別市史』第一巻より)
 ノカナンに北光社第二農場があったことは、北見市民に余り知られていません。しかも、芦別市関係でもこれ以上の資料はありませんでした。まだまだ研究調査の余地はありそうです。


◇武市安哉と聖園農場
 前述した土居勝郎の義父=武市安哉についても、参考に少し見ておきましょう。
 「高知県の自由党代議士であった武市安哉は、明治二六年に北海道開拓事業を志し、八月に石狩國樺戸郡浦臼村に一七一万八、〇〇〇余坪の貸付けを受け農場を開いた。安哉は熱心で敬虔なクリスチャンであったのでここを聖園農場と名付け、日曜日の休業と礼拝・禁酒などの『キリスト教精神による理想的な新農村の建設』(『聖園教会史』昭和57)も目指していた。/武市安哉は弘化四年(一八四七)に高知県長岡郡大多の郷村(現南国市)の郷士の家に生まれ、維新以降は小学校教員、小区戸長、大区長、郡書記などを勤め、明治一二年に県会議員となり自由民権運動に邁進していく。二五年二月には国会議員に選出されるも、この年の一〇月に北海道を訪れた際に月形集治監用地の開放を得たことから北海道拓殖に意欲をもやし、国会議員もみにくい政争にうんで翌年の四月には辞任し、あわせて一八年に入信したキリスト教の活動を新天地に求めて浦臼に自ら入植したのである。/聖園農場には二六年七月に、青年たちの第一回二七人の移民が送られ開墾に着手されていった。彼は青年たちを集め北海道殖民事業の談話会を開き(『土陽新聞』明26・4・5〜8)、新天地で共に行動することを誘ったのであった。二七年四月に第二回の移民も到着した。そして第三回の移民募集のために高知に向かう途次、安哉はこの年の一二月二日に青函連絡船の船中で急死し、事業は三男の健雄および女婿の土居勝郎に引き継がれることになった。」(以上『新芦別市史』第一巻より)
 このように聖園農場は北光社のモデルとも言うべきもので、坂本直寛も大きな刺激を受けたと考えられます。前田駒次も最初、この農場の補佐役として運営に参画していました。
 同農場はその後、土居勝郎が道会議員となり管理人まかせにしたため、借財と不況のため経営困難に陥り、明治42年(1909)に北海道拓殖銀行に譲渡、解散を余儀なくされたそうです。
◇北光社第二次移民団の苦難
 話を北光社に戻しましょう。明治30年(1897)4月4日、第二次移民団は貨物船高洋丸(727トン)に乗船して浦戸湾を出発、途中須崎港で残りの移民が合流し、豊後水道に入り関門海峡を通過して日本海を北上し、4月12日に小樽に寄港しました。その間、狭い船内で麻疹(はしか)が蔓延して子どもが死亡したほか、体力のない老人にも命を落とす者が出ました。(昭和32年発行の『北見市史』には古老からの聞取りとして麻疹で「30人」が死亡したとありますが、これは極端な数字だと筆者は思います。これだけ死者が出たら、航海を中止して、隔離、消毒する等の公的な処置を受けるのが普通ではないでしょうか。いずれにしても裏づけが必要です。)
 移住民=伊東恒吉の『北光社農場開拓記録』によれば、小樽港で一泊後、稚内を廻って網走に進路を取ろうとしたのですが、流氷に阻まれ、波にもまれ、何度も稚内に戻る破目となり、途中船が鯨に接触する珍事にあったりしながら、5月1日にやっと網走に着いたとあります。
 この網走に移民団がついた日について、『北見市史』年表編は郷土史研究家・池田七郎が古老から聞取り調査した5月2日を採用しています。どれが正しいとは現時点でいえません。北見以外で別の資料情報が出てくるなど新発見が必要です。この時入植した戸数も網走支庁殖民課調べでは120戸、野付牛他一ケ村の調書では112戸と違い、その人数については500人とも650人とも言われ、確定した数字はありません。本当のところ、分からないことばかりです。(続く)
《中庭だより》
☆当ニュースを再刊後、各方面から多数激励を頂き、恐縮しました。それにお応えして面白い紙面づくりを、と決意を新たにしております。これからもご鞭撻のほどよろしくお願いします。
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