ヌプンケシ144号

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市史編さんニュース NO.144
タイトルヌプンケシ
平成20年6月1日発行

北光社初代社長 坂本 直寛(3)

◇移民団、原野を行く。
 伊東恒吉の『北光社農場開拓記録』には、船が流氷に阻まれてなかなか網走に着かないので、ある人は陸を踏むことができるのかと不安がるほどで、上陸の時には「一同網走市街を見て地団太を踏んで喜んだ。」とあります。(くやしい時に使う「地団太」の用法が間違っていますが、要するに「足を踏み鳴らす」ほど小躍りして喜んだということでしょう。)地図
 『北見市史』上巻によれば、移民達は5月3日網走に上陸して、同地で2日の休養をとり5月5日めいめい持てるだけの荷物を担いで出発し「約二里位の処に仮監獄では犯罪人が紅い着物で燕麦を蒔て居るのを見て」一号駅逓(嘉多山)に辿り着きましたが、駅逓の宿舎は「社長および社員で満員で、移民は厩舎で馬糞の上に莚を敷き、其の上で寝るので匂は悪く、又ふんの熱で気持悪く、一夜を明した」と伊東は書いていますが、へとへとに疲れているとはいえ、馬小屋の馬糞の上で一泊なんて、誰でも嫌ですよね。その翌日は端野のあった二号駅逓に泊って、5月7日に本部宿舎に到着しました。その道筋は右の図の通りです。
 端野から常呂川を利用した舟による運搬を計画したものの失敗して、全て陸送となりました。当時の道路は囚人達が速成した粗末な刈分け道路で、融雪期や長雨には馬の腹まで没する泥沼となり馬車が通れる状態でなく、安定した輸送手段は江戸時代同様、背に荷駄を載せる駄馬しかありませんでした。馬を借りる術のない移民達は自分で全財産を運ぶしかなかったのです。
◇開墾地に到着
 5月8日ごろ、開拓民達が8班に分けられ、各家族ごとに割当て地に案内された様子を『北見市史』上巻は次のように書いています。「浦戸、須崎で乗船して以来五〇〇人余の大集団と一ヶ月余行動を共にしてきたが、言葉や生活習慣が同じ同郷人なので、一面識もない人々とも直ぐ談笑し合い、喜びも悲しみも共にする和やかで楽しい毎日を過ごして来たのであったが、この日を以て集団は解消した。入地する各戸の開墾地は、原野の中に点在しているので、当分会うことがない。楽しかった集団生活から一気に孤独の世界に入ったのである。」その開墾地へ行く道も、湿原や密林に続く、雑草や枯枝に足をとられるような獣道に等しいものでした。
 やっと目的地に着いて「誘導員の合図で指示する前方を見ると、雑草の生い茂った中に草小屋がぽつりと建っていた。これが我が家かと知った時、家族一同は呆然自失の体でその場に立ち竦んでしまった。やがて家族達の胸中には、各人各様の感情が渦を巻いて込み上げてきた。期待が裏切られた怒り、騙されたという悔しさ、どん底に陥ったという惨めさでしばしは言葉も出なかった。この時の情景について、後日伊東弘祐の述懐として『二間に三間の草小屋、外の見えるような草囲い。座板はヤチダモの割り板でがたがたした上に、而もでこぼこの座敷に庭莚を敷き、女共は泣き出すやら、隣の家は草木で見えず実に心細い。又猛獣の出る恐れも有るやら、莚戸を吊し、枕元に銃と鉞を置いてその晩は寝に付た』と、悲しさや心細さや、恐怖心が交錯した中で一夜を明かしたと語っている。小屋は二間に三間で建坪が6坪である。柱は付近に生えていた雑木の枝を切り払った程度の丸太を地面を掘って立て、これを繋ぐ桁や梁も自然木そのままのを使った。屋根を葺くのも、壁を囲うのも附近に生えていた雑草を使った。(中略)短期間に建てたため、屋根葺や囲いはどれも薄く、古老の談話に『寝床で星が拝めた』とある。」「故郷では作業のための小さな草小屋は見られたが、どんな貧しい家でも一家が居住する母屋でこの様な建物を見たこともなかった丈に、中に入ってみて又更に怒りや悲嘆、落胆の心情が込み上げてきて、暗澹とした空気に包まれたのであった。」
 しかし家や財産を処分して未開の地にやってきた移民達には戻るべき故郷は無いに等しく、結局ここで生きるしかなかったのです。「男達は、まず家の周辺の雑草刈りをして環境を少しでも明るくしようと精を出し始めた。日がたつにつれ、徐々に草小屋の手入れが行われた。」
◇鍬起し
 次に問題なのは食糧でした。蓄えもない以上、自給自足するしかありません。最初に小面積の野菜畑を開墾し、作付けしたのはキャベツが多かったそうです。「愈々本格的な耕地作りに入ったが雑草が繁茂し、特に笹が根を張っている所は作業が困難を極めた。立ち木は伐採したが、巨木は耕作に必要な所だけ倒し、それ以外は耕地の拡張につれて倒すことにした。これ等作業の用具は倒木の鋸と耕地の鍬だけで、作業の大部分は鍬一本によったもので将に開墾の戦いは鍬起しに終始した。送荷の制限から、郷里から持ってきた鍬は種類が少く、場所に適応したものがないままで作業するので能率が極めて悪く、労多くて進捗は遅々としたものであった。」
 しかも夏には無数の蚊や蚋、ダニが襲いかかり、大の男でもあまりの痒さと痛さに悲鳴をあげるほどで、女性は着物でしたから尚更大変でした。(モンペが野良着として普及するのは、東北出身者が入植してからでした。)夜になれば、熊の唸り声や気配に驚かされる日々でした。
 「食料作物としては初年度は五升薯(ジャガイモのこと—引用者)、稲黍、そばが主であった。播種の方法は薯の場合完全に起すことは容易でないので、播く溝だけ溝起しをし、條と條の間は草を刈りとるだけにして起さずに残した、唐黍の場合も植える所を等間隔にしてそこだけ一尺五寸位の広さに起して播いた壷起法。そばと稲黍の場合、笹の多い所は、前記のように刈り取って乾燥させてから火入れをする。焼畑になったところで種子を振り播いた後鍬で半ば掻くように、半ば叩くようにして種子が地面に入り込むようにした。これは相当根気のいる作業であった。こうした開墾方法を年年繰り返すことで次第に耕地面積が増加していった。」「薯、そばは網走監獄から、唐黍、稲黍は石狩方面から北光社本部がとり寄せたものであった。」
 「明治三十一年(一八九八)には小麦が加わり、この小麦によって、稲黍と共に主食は粗食であるが一応安定したのであった。それにこの頃から豆類も植え付けられ、三度豆と称した長鶉が作付けされて自家用として、又換金作物として次第に作付面積が増えていった。」
 南国高知出身の開拓民にとって、厳寒の冬も大敵でした。防寒対策もなく、雪が吹き込む粗末な小屋では一晩中寝ずの番で薪を炉にくべなくてはなりませんでした。それでも朝起きて見ると、布団の上に雪が積もり、襟が息で霜のように真っ白く凍りついていたそうです。(続く)

《中庭だより》
☆先日、当室へ電話で「昭和20年頃の市内地図がないか?」と市民の方から問合せがあり、昭和27年の地図しかない旨回答したら「何故ないのか」とお叱りを受け、担当者は困ってしまいました。これまでも当紙に書いてきたように、当市では一般的に古い資料の保存意識が高いとはいえず、主幹が配置された平成13年度以降は可能な限り収集に努めているのですが、まれに出てくる程度なのです。そんなことで史料があったらぜひ当室へご寄贈をお願いします。
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