ヌプンケシ146号

北見市総務部 市史編さん主幹  〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-25-1039

市史編さんニュース NO.146
タイトルヌプンケシ
平成20年7月1日発行

馬場酒造店のこと(1)

 4月11日付の『北海道新聞』管内版、12日付の『経済の伝書鳩』で報道されたとおり、馬場酒造店経営者=馬場昌久氏の息子さんの奥様、馬場ちゑ子様から当市に大変貴重な写真114タイトル、119枚の寄贈があったほか、情報提供で判明した事もありました。また、新聞報道を見て、馬場酒造店のボイラーマンであった方の息子さんからの貴重な証言も出てきました。そこで、この間の調査で判明したことを今号からシリーズで皆さんに報告したいと思います。
◇インターネットの『ヌプンケシ』136号を見て 
 ことの起こりは、静岡県在住の、昌久氏のお孫さん、森下美恵子さんが市のホームページにある『ヌプンケシ』136号「『北の天』という北見の地酒を知っていますか?」の記事を見て、本年1月に北網圏北見文化センターに連絡をくれたのが最初でした。お話では昌久氏の息子、俊久氏の奥様=森下さんのお母様である馬場ちゑ子様が身辺整理を始めて、野付牛時代の大量の写真類や書が出てきたので、北見市のお役に立つのであれば寄贈したい、ということでした。
 早速、文化財担当係長が喜んで寄贈をお願いして、現物が送られてきました。拝見した写真類は、馬場酒造店が隆盛の様子を明らかにする、市史担当者が見たことのないものばかりでした。書の類は、昭和17年(1942)、馬場昌久氏が北見を離れるに際して、友人たちが送別の辞を書いたものが中心でした。その後、市史編さん事務室が協力して写真類を整理・分類し、リスト化しました。現物は北網圏北見文化センターで保管しています。
警防團長馬場昌久氏 送別会紀念写真 右の写真は、その寄贈写真の中にあった警防団関係者の送別会記念のものです。
 馬場昌久氏は北海道で一旗あげたら故郷に戻るつもりだったらしく戸籍は野付牛には無く、福井県南条郡神山村(その後、武生市となり、平成17年10月に今立町と合併、現・越前市)に置いたままでしたから、除籍による住居異動の追跡は全く不可能でした。
 それで市史編さん事務室からも森下さんへ再三お手紙をし、親切に色々教えて頂きました。
◇馬場氏の離北後の消息
 しかし、馬場昌久氏が北見を離れてからのことは、長男の俊久氏が平成9年(1997)6月21日にお亡くなりになり、現在では他に詳しい事情の分かる親族もいないので、お母様がご主人=俊久氏から聞いたことを思い出して、森下さんを介して教えて頂くようなことになりました。
 そのご返信からの要点は、次のとおりです。「上京してからの祖父(昌久)についてですが、おはずかしながら、軍需工場については、どこにあったのか、どのような規模であったのか全くわかりません。事実、馬場酒造についてさえわからない事ばかりなのです。ただ亡父(俊久)が申しておりましたには、住まいは、神奈川県鎌倉市雪の下にあったとの事です。また、同市の海岸近くに別荘もあったようです。学生の頃、そこから軍需工場へ通ったり、機銃掃射にあった中、命拾いしたことも話していたそうです。」
 「祖父昌久は、戦争も終わり、軍需工場をやめると、次に、鉄の炭火アイロンをつくっていたとの事です。その商売がうまくいったかどうかはわかりませんが、福井の元実家にそのアイロンが残っていたので、母が聞くとそのように言っていたそうです。」
 その後「昌久は鎌倉を引き払い、福井県武生市広瀬町の実家へ戻りました。馬場家は大きな庄屋でしたが、すでに、農地改革でほとんどの土地を失っておりました。/武生市にもどっても警察署の役員など、いろいろな役をこなしていた様です。」
馬場昌久氏写真 昭和26年(1951)3月6日、最初の妻、さだをが55歳で逝去しました。昭和27年6月5日には後妻ミツと結婚しています。
 「晩年には、静岡県焼津市で開業医となった俊久の世話となり、二人で焼津市に住居をかまえましたが、(昭和45年11月28日—引用者)みつが亡くなると俊久と同居しました。
 昭和49年(1974年—引用者)、一月十二日、朝の散歩中、交通事故により他界しました。享年八十才でした。」
 これらのお手紙で、馬場久氏は北見から転出後、鎌倉に居を置いて、具体的には今のところ明確になりませんが、軍需工場を経営していたのは間違いなく、戦中を生抜いて、戦後のいつかは不明ですが、郷里に引揚げ、晩年は静岡県で息子さんの世話になったことがわかりました。
 送って頂いた右上の写真を見ると、戦前の写真にあるような近寄りがたい厳しい顔つきではなく、全く仏様のような穏やかな表情で、暖かな家族に囲まれた幸福な晩年が推察されます。もし、交通事故に遭わなければもっと長生きされたことでしょう。
◇馬場昌久氏の略歴訂正
 ヌプンケシ136号では馬場昌久氏の略歴を『北見の消防』の引用で紹介しましたが、経歴を再調査し、同書とその種本『北見の今昔』の間違いに気づきましたので、訂正をしておきます。
 明治26年(1893)12月23日、父=安太郎(明治元年・1868年9月17日生れ)の次男として福井県南條郡神山村に生れたことは森下さんから見せて頂いた除籍から、間違いありません。森下さんからのお手紙では、家系図によると7人兄弟だったのが、幼少期に4人亡くなり、本人と妹2人になったそうで、昌久氏は次男ですが、馬場家の跡取りとして大切にされたようです。
 種本である名士録『北見の今昔』にある略歴、「県立福井中学校を経て早大商科を卒業」のところが大きな間違いです。卒業したのは、「県立武生中学校」で、早大商科は「中退」です。
 その根拠は馬場昌久氏が登場する一番古い名士録、大正15年(1926)12月発行の『東北海道の人物』で、そこには次のように馬場氏が紹介されています。
 「君は明治廿六年師走の末、福井縣南條郡神山村字廣瀬に呱々の聲を擧げ、同四十五年春、福井縣立武生中学卒業後、帝都に笈を負ひ早稲田大學商科に學んで大正三年七月校門を出で當時小樽に居住の厳父安太郎氏を扶けて家業の味噌醤油醸造に携はり、同七年、居を野付牛町に轉じ、獨力を以って酒造業を創め、現在に及んでいる。」
 この武生中学校卒業は、越前市中央図書館にお願いした「武生高等学校同窓会名簿」調査で「武生中学 明治45年(第12回)卒業」を確認しました。早稲田大学については先の記述に「大正三年(1914)七月校門を出で」とあり、卒業とは書いてありません。7月という月も奇妙ですし、年齢でいうと昌久氏が20歳の時になります。この『東北海道の人物』が以後の名士録の種本でしょうが、伝言ゲーム同様、孫引きされるうちに違うことになったのでしょう。 (続く)

《中庭だより》
☆6月24日、母方の祖父が前田駒次と知人だったという昭和23年頃に市内高校を卒業した老紳士が、自分史の資料収集に当室に来られました。いつも思うことですが、事前にご連絡があれば、当室も下調べしてお話を聞き十分な対応できたのにと少々残念でした。
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