ヌプンケシ156号

北見市総務部 市史編さん主幹  〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-25-1039

市史編さんニュース NO.156
 タイトルヌプンケシ
平成20年12月1日発行

◎旧北見市「字名の由来」について(3)

 前号で大野一郎氏の「字名地番改称に寄す」という投稿記事を紹介しましたが、そこに現在の字名で、昭和27年改正以前から使用されていた地名がたくさんあることに読者の皆様も気づかれたと思います。そこで今号は、開拓事業関係から派生した地名を取上げてみましょう。
◇アイヌ語から殖民地選定事業の地名へ〜上常呂

区画測定をしている写真 大正15年(1926)12月発行『野付牛町誌』に次の記述があります。「明治十九年八月 北海道庁は殖民地選定事業を開始したりと雖も交通不便の北見地方にありては其の実施も随て遅く同二十四年に至り下常呂、上常呂、湧別の三大原野を技師柳本通義、内田瀞主任となり古林芳三郎、門田啓太郎、崎野人也実測をなす。之れ網走支庁管内に於ける区画測定の創始也。」
 開拓するには、何よりも最初に未開の原野に名称をつけなくてはならないわけで明治24年(1891)時点で現北見市一帯を「下常呂原野・上常呂原野」と呼んでいたことがわかります。なお、その「常呂」の語源はアイヌ語の「トーコロ」で、「湖水のあるところ」を指すそうです。常呂川に沿って下常呂は現在の常呂自治区一円で、上常呂はその上流、野付牛一円の広い範囲を示していたようです。現在の字名「上ところ」は、常呂川の上流であることと、この殖民地選定事業の「上常呂」原野が起源といって良いでしょう。それが何故、平仮名の「上ところ」となったかは、後で説明します。(なお、上の写真は区画測定をしている様子の参考例で、上常呂原野とは無関係です。)

◇北光社の入植で出来た地名〜北光・豊地
 原野に開拓者が入植して事務所や住宅、官舎が配置され、それに合わせて人々が便宜的につけた地名も増えていきました。 
 明治30年(1897)5月に、北光社移民団が入植しました。そこで、北光社の事務所のある場所を「北光社」と呼び、それが昭和27年の字名「北光」のもとになりました。昭和32年発行の『北見市史』によれば、明治30年「頃の北光社は第十三部(北光社片岡農場)内に含まれていた。町制を施行した大正五年から北光社部となり、さらに昭和に入り区長設置区域が定められて北光社区となった。区域は常呂川と無加川に囲まれた西七号線以東および上ランコク中ランコク下ランコクを含めた広範な区域であったが、昭和二十七年八月一日北見市字名地番改正に当り南丘(ランコク一円)北光(北光社農場事務所周辺の原野)および北上(北光の西隣分)の三字地区に分割されて現在に至っている。」とあります。
 その他、北光社移民団は出資者名を冠した班ごとに居住して、それを地名としていました。それが後の字名になった例が「豊地」で、これは出資者=傍士(ほうじ)定治の名前から由来し、「野付牛町区設置規程」の「昭和三年一月十日告示第三号改正発布」の時に「豊地区」になりました。なお、昭和32年版『北見市史』に「昭和五年町議会で『豊地』と改称することになった。」とありますが、これは部落名を区にあわせて「豊地」にしたということでしょう。
 同じく明治30年6月には屯田歩兵第四大隊が入地し、端野に第一中隊、野付牛に第二中隊、相内に第三中隊、湧別原野に第四・第五中隊が配置され、屯田兵は兵村=区ごとに住居を設定しました。前号に端野の字名で「一区、二区、三区」とあったのは、その兵村の区からきています。北見自治区でも、兵村一区(小泉)、兵村二区(北見駅南)、兵村三区(とん田町)、兵村四区(三輪)に分けられ、それが長らく字名改正以前まで地域名として使用されていました。
◇開拓の進展と地名〜仁頃町・上仁頃・若松・川東・開成・大正・昭和

 各地原野の開拓と共に地名も増えていきました。たとえば、「仁頃町」です。地名としての仁頃の起源はアイヌ語の「ニコロ」で、意味は「樹木の多い沢、または川」で、これが幕末に文書で記録されたのは、当ニュース122号にも書きましたが、1858年松浦武四郎が常呂川流域を探検した時でした。筆者の知る資料で開拓期に「ニコロ」が登場してくるのは、明治34年(1901)11月発行の『殖民公報』第五号にある明治34年11月22日付「北海道庁告示第四百九十四号」で「明治三十五年以降貸付スヘキ区画地左ノ如シ」と国郡原野が提示されている中に「北見國常呂郡ニコロ原野」として出てきます。これらが、昭和27年の字名「仁頃町」、仁頃川上流に位置する「上仁頃」のもとになりました。
 次に「若松」を見てみましょう。「若松部落 当部落の開発は明治三十六年神戸なる北海林業及野付牛鈴木商工株式会社等の造材(白楊及榀)に端を発し」「其の後逐年戸口増加し四十五年志武士内部落として一部落を作すに至る。大正二年若松部落と改称す。」(『野付牛町誌』より)平成7年(1995)発行『若松史誌』を読むと、明治41年(1908)4月25日「松倉規、松倉織江が十勝の豊頃からシュブシュブシナイに初めて入植する。ここをもって、若松地区の開基とする。」としています。「シュブシュブシナイ」とはアイヌ語で「鉱泉の湧く沢」の意味だそうで、後に「若松温泉」ができるのも道理です。また若松の由来についても大正2年(1913)4月「生徒約二四人で西小学校の分教場が設けられ」、「学校は田中農場主田中康晴氏が土地・建物を寄附したものであつた。シュブシナイが若松になったのもこの時からで、学校の落成式に臨席された網走支庁長が田中氏の友人であったので、その郷里会津若松にちなんで若松とし、若松教授場が誕生した。現若松小学校の前身である。」と紹介されているとおりです。
 明治42年頃、「川東」は「若松」と同じ「第六部(野付牛新区画地)」と呼ばれていた元屯田兵の共有地に属していましたが、大正5年(1916)の町制施行時に若松と分離、現在の区域になったようで、当初は「常呂川の向う側」で「野付牛川向部」と称していたようです。昭和3年(1928)の区制設定の時には、端野の「川向」と紛らわしいためか、「川東区」となりました。
 先の若松同様に学校名が部落名となったのが、「開成」です。昭和33年(1958)発行『開成五十年の歩み』によると、最初「開成」は、アイヌ語のサラキチシュナイ(一面に茅の生い茂った川)に漢字をあて「更吉朱内部落」と称したのが、昭和5年(1930)小学校が上常呂小学校から分離して開成小学校になった時に、部落名も「開成」になったということです。何故「開成」になったか資料は何もありませんが、推測すると「開拓成功」から取ったのでしょうか。
 年号から取った地名もあります。「大正区は往時第二中隊四区(三輪)に属していたのだった。それが大正五年の町制施行によって屯田旧灌漑溝から北を分けて大正部落として発足したのである。」大正5年(1916)に地区として独立したので「大正」にしたという明快な字名です。
 「昭和」も初めは第二中隊一区(小泉)に属していましたが、町制施行時に野付牛第六部として分離されて「二ノ六部落」となり、昭和に入って開拓が進み、昭和3年に「昭和区」となり、昭和7年に部落名を「昭和」と改称したそうです。(以上、昭和32年版『北見市史』より)(続)

《中庭だより》
☆大野一郎氏を紹介した前号を読んだ娘さんから連絡があって、同氏の生年(明40.6.30)と没年(昭63.2.1)がわかり、それを手掛かりに同氏が屯田兵・大野兼五郎氏の長男である等の略歴も判明しました。研究者として大変うれしいことでした。有難うございました。
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