ヌプンケシ157号

北見市総務部 市史編さん主幹  〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-25-1039

市史編さんニュース NO.157
 タイトルヌプンケシ
平成20年12月15日発行

◎旧北見市「字名の由来」について(4)

◇戦前の要覧等に出てくる地名
 先のニュース155号で大野一郎氏が参考に挙げた地名の中に、戦前から一般住民に通用していた地名があったようなので、試しに古い野付牛のガイドブックである『要覧』等に出てくる地名を、条丁目は除いて其々の巻頭から代表的なものを拾い出してみました。ご笑覧ください。
〇『北見國野付牛要覧』(大正6年=1917年9月発行)

 停車場構内・停車場通り・駅前・停車場前・市街地南十三号・市街地・丸玉・旧市街・東中央市街・高台・中央山ノ上・浮世小路・オンネメーム・農事試験場前・郵便局前・学校前・日出湯前・嵩病院横・仁頃・川向・中之澤
 明治44年(1911)9月25日に野付牛駅が正式に開駅して、駅が街の中心となり、「停車場通り」(現・中央通り)が市街地を2分する形で、条丁目で区画されました。
 開拓初期の街の中心地、現在の大通東9丁目交差点周辺は「旧市街」と呼ばれるようになり、生活用水確保が難しく放置されていた広大な台地の上=「高台」にも施設が建ち始めました。
 「浮世小路」は現在の岡村建設のある北1条東5丁目一帯で、野付牛に薄荷油を売りに仁頃通りをおりてくる農民たちを当て込んだ料理屋が軒を連ねていました。
 「オンネメーム」は、アイヌ語で「大きな池」の意味で、その「大きな池はどこにあったというと無加川が常呂川に注ぐ少し手前で、裏山方面の高台から流れてきた小川が、無加川に流入したあたりを指したものです。ちょうど、今の常盤町の無加川に接近したところです。」「ところが人口が増え、市街が広がるにつれてその意味を忘れ、別な所を指すようになりました。/古い地図を見ると、大正三年ごろまではまだ最初の所になっていますが、大正四、五年以後は今の市民会館付近から無加川までの、広い漠然とした範囲を指すようになり、その後さらに西に移って大正入口の西八号線付近を指すようになりました。/やがてそこからもこの名称が消えて、今日では幻の地名となってしまいました。」(『歴史の散歩道』より)
 他は当時目立った施設、建物を利用して住居表示していたことがわかります。

〇『野付牛総覧』(大正12年=1923年8月発行)〜桜町・旭町
 駅前・停車場通・停車場構内・停車場前・線路向・北見劇場横・北見劇場前・稲荷神社前・稲荷小路・高台・高台役場前・桜町・旭町・旧市街・仁頃道路・仁頃通り・浮世小路・西小学校裏・三井工場通・番外地・オンネメーム・上常呂・下仁頃・上仁頃・毛當別・若松・傍士
 「線路向」は中心市街地からみて「線路の向う側」くらいの意味で、鉄南の相当広い地域を指していたようですが、建物も少なかった昔ですから十分これで用が足りたのでしょう。
 「稲荷小路」というのは、大正10年(1921)頃に現在のロータリーのところに稲荷神社が遷座して建てられ、現銀座通りが参詣道路のようになり、三条通りに「梅の家」や「河西軒」などを中心とした飲食店街が形成されたところから、このように命名されました。
 ここで注目されるのは、「桜町」と「旭町」です。手持ちで「桜町」と表示のある地図は、昭和4年(1929)発行の『野付牛明細図』が一番古く、それを見ると現在の桜町と一致しました。何故、「桜町」となったか、由来を示す資料は何もありません。
 次の「旭町」は昭和11年(1936)発行の『野付牛阿寒連絡観光地図』で見ると、現在の朝日町と同じ地域でした。ここには北見飲料株式会社がありましたから、その関係で「旭町」になったのかもしれませんが、この会社に関する資料も無いので、推測のしようもありません。しかし、両地区名共に大正の後期から住民に認知されていたことは間違いありません。
〇『野付牛商工案内』(昭和2年=1927年4月発行)〜山下町

 この『案内』には「四、土 地」という項目に次の記述がありました。「(前略)市街を別つ字名は左の如し/大通/一條/二條/三條/四條/五條/六條/七條/八條/九條/十條/十一條/十二條/十三條/を東西に分ち 高台新町 旭町 桜町とし 部落を分ち 高台 一区 二区 三区 四区 大正 若松 上常呂 上仁頃 毛當別 北光社 中の澤 更吉朱内に分つ」とあり、ここでも「旭町」「桜町」が市街地の字名として挙げられています。「高台新町」というのは、先にあげた昭和4年の地図にはなく、昭和11年の地図に「新町」と表記されていて、現在の幸町の新井通り周辺を指していたようです。
 ついでにこの『案内』の中の地名を拾うと、次のようなものがありました。
 停車場内・停車場前・停車場通り・線路向・二区・高台・高台役場前・新町・仁頃道路・オンネメーム・桜町・山下町・三楽園内
 やっと「山下町」が出てきました。「山下町」は下に示した大正12年の『野付牛総覧』附録地図に明確に表示されています。昭和39年(1964)7月21日付『北見新聞』特集『街』の記事によれ野付牛町市街之圖ば「町名が決るまでの山下町は北見東宝劇場(現・東宝ビル—引用者)から西に走る表通りの両側と、裏通りの両側を指していた」。
 この「山下町」の由来については、『北海道新聞』特 集「きたみ六十八町」にある昭和40年(1965)7月23日付、4「山下町」に次の記述があります。山下町は「明治四十年間、沼地とヤチボウズとカエルの住み家だった荒地に、人間としてはじめて住みついたのは、現在三丁目に住んでいる上村家のおじいさんである故上村宗太郎、宗次郎兄弟だった。当時は、とん田兵の区画整理からもはずされたほどの土地だったという。/運送業をはじめた上村兄弟は、やがて馬車追い人足たちの力で沼地を埋め立てし、使用人のいわば厚生施設を作ったのが、山下町に住家が建ったはじまりらしい。小高い丘の下に位置していたところから宗太郎さんが山下町と名付け、労働者たちの家だけが立ち並んでいた」だけでした。だから、要覧等に「山下町」の名が出てくるのが遅いはずです。
 「小高い丘の下」だから「山下町」、実に単純明解な由来です。山下町界隈を飲み歩いた時などに、大正時代から住民に「山下町」と親しく呼ばれていたことも思い出してください。(続)

《中庭だより》
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