ヌプンケシ162号

北見市総務部 市史編さん主幹  〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-25-1039

市史編さんニュース NO.162
 タイトルヌプンケシ
平成21年3月1日発行

◎旧北見市「字名の由来」について(9)
 今号も前号に引続き、昭和27年(1952)第3回定例会、6月29日の議事録から報告します。
◇「番場町」を巡っての質疑応答
 この議事録を読んで初めて知ったのは、「番場町」の字名を付けるのに議員から異議があったということでした。次にその部分を原文のまま紹介します。
 

二十九番 〈古賀鋭治君〉私共の所は北斗、番場、中央の三つに分かれておるが、最終の最終委員会にもってゆかれたときは番場、中央併せて中央町にもってゆきたい。然し地域的に広ければ分けて良いという全員の意向であったが、三町に分かれています。これについて解答(回答?−引用者)願いたい。
番外





 
〈清水藤内君〉お答えします。これは三月三十一日の協議会においては、その話はなく道庁え持ってゆく前日に、そうゆう意見を申されたと聞きます。又作成中のときも、色々の申し出のあったときは明記しておったが番場町については、何ら明記してないのです。また此の町は北見市以前からあった町で 以前番場氏があの辺を最初に開墾し、野付牛中学校が建つときは寄付をした功労者である。又全国的にも番場町という町名を聞(耳?−引用者)にします。古い場所であり、由緒ある所は残すという事であり、此の点差支えなければ、とん田と同様ご了承願います。
二十九番





 
〈古賀鋭治君〉番場さんのことを言われたが、加藤さんも野付牛中学校が建つとき同じく寄付しておる。その当時の事を言うと番場さんが寄付した土地は加藤さんが持っていた土地で、これは番場さんの間で揉めたが、加藤さんは寄付されるのであるならそれを上げようという事で番場さんの名前で寄付されたのであって、寧ろ功労者は加藤さんになるのです。こうゆう問題があるので、従って由緒を残すと言うのなら平等に残したほうがいいと思う。又人名を外すなら、どちらも外して中央町にした方がいいじゃないかと考えます。
七番








 
〈寺前武雄君〉只今の番場町についての問題を委員会で討議した当時、古賀議員が言われた事は充分通じた筈であり、出来得るだけ名前は残したくないという意向であったが依然としてここに残っております。そのいきさつには古賀議員が言われた様に複雑なものがあります。結局、功績は寧ろ加藤さんにある様で当時、加藤さんが表彰されたのです。又番場さんは俺は役所え行って残してもらう様にしてきたからお前も頼んで来いと加藤さんの母親に言ったので、役所にも再三来られた筈ですが、相手は女、愚痴であり又方々で知恵をつけられ今更本人は諦めておらない格好であり私もその事について土木課え行って話した筈です。その後新聞で清見町になっておるのを見たが、そもそも清見町を取入れたのは土木課長が清見町にいるから都合のいい名を附けたのかも知れません。(笑声)もう少し考えてもらいたい。
番外




 
〈清水藤内君〉これは多々誤解している点もあると思う。あなたのおっしゃる通り功労者であったが現存しておらず、それを殊更死人の名前を新たに附ける事は、疑問だと思う。また、これは功労者という事でなく番場町が北見の番場町であるという事は一応解っています。又番場さんに頼まれたので残したのでないから、その点誤解のない様に願いたい。清見町は清水の清をとって附けた(笑声)という事は非常に私遺憾に思います。
二十六番 〈沢田喜一君〉これについては議員諸侯も一応これで我慢したら良いと思う。
七番

 
〈寺前武雄君〉私は只、此のいきさつについては課長もよく知っているのだから地元の意見を入れて欲しいと言うのです。中央、北斗、番場の代表が中央町一本にしたいという意見を申し出た筈で、此の地元の意見を取り入れるならば何故番場町にしたか。
番外

 
〈清水藤内君〉只今のお話の点ですが、寺前議員の言われる事としてはおかしいと考えます。(笑声)寺前さんは委員の一人になっており、協議会の席上において、番場町を残す事を全会一致で決めたのであり、それを今になってとやかく言う事は納得がいかない。(笑声)
七番


 
〈寺前武雄君〉私は番場町を除けという地元の意見を充分入れてもらいたいと言う事を此の前伝達しておったのです。その後中央町一本にしたいという地元の意見が出ているのに番場町が残っているので此の事を言うのです。私は番場町を撤回せよと言うのでなく地元の意見を充分入れて欲しいと言うのです。

 ここで揉めた原因は大正11年(1922)の野付牛中学校設置にまでさかのぼるようです。
 大正15年(1926)発行『野付牛町誌』に次の一節があります。野付牛町に中学校を設置して中等普通教育を完璧にしたいと願っていたが、地方費が不足で実現できなかった。「敷地、校舎等臨時費に属する一切を地方寄附の條件となし大正十一年野付牛中学校の設置を見るに至れり。茲に於て町有志相図り敷地の全部は番場義作(儀作が正しい。−引用者)、加藤柳次郎等の寄附に俟ち校舎建築費は一般町民の寄附金を以て之に充当することに決し総工費前後を通じて八萬九千二百九十五円二十七銭を支出し十二年十一月竣工を告げたり。」
 番場儀作と共に中学校用地を寄付した加藤柳次郎の妻が、番場の名が字名に残るのであれば、それ以上に功績のあった加藤の名を何らかの形で残せ、それでなければ番場の名を消して「中央町」に一本化にするように、と運動していたようです。その相談に乗って、原案に異議を唱えた寺前議員(後の北見市長)が清水土木課長に、協議会で「番場町」を残すことに賛成しておきながら今更何を言うか、と逆襲されてしどろもどろになっているのが何とも微笑ましいですね。結局はこれ以上反対意見が出ず、原案のとおり承認されました。
◇広里(ひろさと)から広郷(ひろさと)へ
 議会に提案のあった広里について(上常呂高台)の出身議員から次の要望がありました。
「十九番〈角田友吉君〉これはどうしても郷という字を入れて戴きたい。こうゆう部落の声ですから。/番外〈清水藤内君〉これも道の方で簡単に直せるようであればその様にします。」
 議会提案前に「美郷(みさと)」が「美里」になったのに対して、「広里(ひろさと)」は議会で「広郷」に漢字を直してほしいと要望、前号の新聞記事の通り、道の了解を得て変更されました。しかし、何故「里」を「郷」にしたのか、説明した資料は見当たりありませんでした。
 こうして昭和27年6月29日、議会で「原案可決」され、道との調整を終えて、同年8月1日から新字名を実施しました。市では新字名を書いた札を辻々に表示するなど、徹底を図ったようですが、同年8月21日付『北海道新聞』北見版に「『まだ多い旧名使用』/市工営課/新番地の実行要望」と見出しがある通り、認知されるにはしばらく時間がかかったようです。(続)
《中庭だより》
☆北網圏北見文化センターから、馬場酒造店の写真を見に来たご高齢のお客さんが問題の軍需工場を知っていた、という情報がありました。早速その方に取材したら、工場は横須賀ではなく、三鷹市井口にあったそうです。詳細は後日報告しますので、ご期待ください。
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