ヌプンケシ165号

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市史編さんニュース NO.165
 タイトルヌプンケシ
平成21年4月15日発行

◎馬場経営の軍需工場は三鷹にあった
 昭和17年(1942)馬場昌久氏が本州に転居、経営した軍需工場については、152号で報告のとおり、鎌倉市立図書館からの情報で横須賀にあったのではないかとのことでしたが、不明のままでした。ところが、2月5日、馬場酒造店の写真を見に北網圏北見文化センターに来られたお客様がその工場を知っているとの情報が同センター職員からあり、翌日、そのお客様=小林昇氏に電話したところ、同工場が現在の三鷹市にあったことが判明しました。2月19日には同氏が来室、直接聞取りすることが出来ましたので、今号はその証言を中心にレポートします。
◇証言者 小林 昇氏の略歴
 その前に、小林氏の略歴をご紹介します。同氏は大正13年(1924)5月12日、新潟県出身の父=大作・母=トクの長男として現在の青葉町で生まれ、その後、父親が農業経営拡大のため、大正区へ転居。昭和12年(1937)3月、野付牛町立大正尋常小学校卒業。昭和14年(1939)3月、野付牛町立中央尋常高等小学校高等科卒業と同時に、東京都武蔵野町(現在の武蔵野市)の和漢薬種問屋「金子仁生堂」に丁稚として勤め、夜は中野区にあった東亜商業学校に学びました。同校を苦学して昭和17年12月卒業。昭和18年(1943)3月、金子仁生堂退社。同年4月、小金井にある神田山新知恩寺幡随院の世話になり伊達育英奨学会白道寮に入寮、慶応義塾外国語学校(夜)へ進学。昭和19年(1944)3月同校中退、同年10月現役召集により北見に戻り、11月陸軍の苫小牧稔部隊に入隊、昭和20年6月鹿児島へ移動、同地で8月終戦を迎え、10月帰郷。
 戦後は一時期上京して金子商事入社、その後北見で独立して薬用植物、香辛料取引を手がけ、本町2丁目に店舗を構え、これからという昭和28年(1953)に結核になり、3年間の療養生活を送りました。回復後は薬品会社の原料事務所責任者となり、昭和39年 (1964)からは親戚の石油販売店の経営を手伝い、昭和46年(1971)灯油等販売、暖房機等販売・修理の「小林商会」を創業、現在はご子息に経営を任せ、お元気に悠々自適の毎日を過ごされています。
◇小林氏の証言内容
 戦前、薬種問屋の丁稚だった小林氏と問題の軍需工場との係わりは次のとおりでした。
地図 「薬種問屋では自社の倉庫が一杯になると武蔵境の農家、下田軍治方の納屋を倉庫がわりにしていて、私はそこまでオート三輪車で薬の材料を運んでいた。
 昭和17年(1942)頃だと思うがその農家の土地を借りて野付牛から転居してきた田中信次という大工さんが家を建てて住んでいたので、親しくなった。その大工さんが、馬場氏が経営する軍需工場のお抱え大工だった。それで、私も工場に出入りするようになった。
 その頃は、中央線沿線の立川まで毎日軍需工場が一つ出来てい るような状態だった。馬場さんの工場の場所は現在の三鷹市井口にあった。(前ページ地図のところです。)工場の名称は『東京兵器』で、敷地は1,500坪くらいあったと思う。従業員も40人ほどで、旋盤など工作機械があった。三鷹には中島飛行機等の工場もあったから、下請けで部品を作っていたのかもしれない。
 実際に工場を仕切っていたのは、野付牛で新聞社の幹部だった三上という専務で、馬場社長は滅多に会社には姿を見せていなかったようだ。戦後もこの三上さんとは親しくしてもらい、 昭和22年頃に三上さんを訪ねた時には鉄製アイロンを作る工場になっていたが、その工場がその後どうなったかは何も知らない。平成2年に亡くなった妻(愛子さん)が生きていれば、詳しく馬場さんのことや『東京兵器』のことも分かっただろう。妻は大工の田中さんの娘で、昭和17年に野付牛高等女学校を卒業後、上京して『東京兵器』に勤務していた。」
 小林氏が証言された戦後「鉄製アイロン」製造云々は、146号にある馬場氏ご遺族の証言と一致しています。大工の田中さんは武生出身で、馬場社長とは同郷でした。また野付牛町で1条西2丁目にあった馬場酒造店販売部の責任者だった福島という人も、同工場で勤務していたそうですから、信頼できる野付牛時代からの従業員や同郷人で経営を固めていたのでしょう。
 なお、専務だった三上とは、筆者の調査では「野付牛町字上常呂南七線西七号番外地」に明治41年(1909)3月30日生まれた「三上清治」氏で、小林氏にも後日確認して貰いしました。小林氏のお話では、北見で洋服屋だった三上氏の弟「民司」氏も同工場に勤務し、末の弟「秀雄」氏は中央尋常高等小学校で小林氏の2年先輩だったこともわかりました。三上清治氏のことについては、これ以上情報がありませんでした。ご存知の方がいたらぜひお知らせください。
◇「東京兵器」の建物写真が出てきた
 小林氏の証言を基に、三鷹図書館に「東京兵器」の所在確認をお願いしましたところ、3月12日付で回答があり、調査結果としては地図での所在地は確定できなかったものの、勤労動員などの記録で「東京兵器分工場」の記述があったとその部分のコピーを頂きました。
 そして3月26日、馬場昌久氏の孫、森下美恵子さんから貴重な写真が再度送られてきて、そ東京兵器の建物写真の中に何と「東京兵器」と看板のある建物の写真と従業員の記念写真がありました。この2枚の写真は馬場氏が経営していた工場の実在を示す重要な証拠で、幸運な偶然の連続に筆者はつい嬉しくなりました。小林昇さんにその2枚を見て頂いたところ、間違いないとのことでした。
 ただし、戦前の朝日新聞の記事やインターネットにあった切れ切れの情報を見ると、大きな会社としての「東京兵器」があって、馬場氏が経営していた工場は系列会社か下請けだった可能性があります。小林氏の奥様がご存命であれば、具体的な工場の実態とどのような物を生産していたかも簡単に分かったことでしょう。こうした過去の調査は時間との競争みたいなもので、時と共に失われた記憶は永遠に戻ってきません。まだ未解明な部分は、今後も何とか調査を継続して行きたいと思っています。(完)
《中庭だより》☆お知らせが大変遅くなりましたが、3月末で伊藤公平嘱託員が退職されました。伊藤さんには平成13年9月の当室開設以来これまでお世話になり、本当にありがとうございました。これからも地域史研究家として一層活躍され、市史編さん事業にもご協力ください。また、4月からは後任として常松信明さんが配置されましたので、よろしくお願いいたします。
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