ヌプンケシ168号

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市史編さんニュース NO.168
 タイトルヌプンケシ
平成21年6月1日発行

◎杉町 八重充と徴兵制(2)
 さて前回は杉町が在シアトル日本帝国領事館へ提出した「御願書」を見たわけですが、どうして留学するに至ったかについては、格好よく「年来懐抱シ居リシ海外留学ノ宿望」を遂げるためと抽象的にしか述べておらず、実際に何を勉強したかったかは何も具体的に述べていません。次にあげる資料によれば、杉町の留学には別の事情があったと考えられます。米国初期の日本語新聞
◇『米国初期の日本語新聞』の中で杉町を取り上げた論文
 筆者の調査では、杉町の経歴についてまとまった記述は昭和61年(1986)9月に発行された論文集『米国初期の日本語新聞』(勁草書房)で、「明治を越えて/I 杉町八重充 一九一九〜一九六七 」という関口英男という人が書いた論文しかありませんでした。この論文は杉町の出身地を北見市でなく札幌市としたり、杉町の生年は明治31年(1898)なのに、何を根拠にしたか不明ですが、1919年(大正8年)を生年にして享年を48歳にする等の間違いがありますが、現在はこれしか情報がありませんので、留学に関するエピソードを少々長くなりますが、次に引用したいと思います。
◇普通選挙権獲得運動で大学から追放
 「杉町は札幌北海中学時代から海外留学を志していた。中学を卒業し上京した彼は、海外に留学生を送っていた早稲田入学を目指したが、すでに入学願書の締切りが三日前に終っていたことから明治大学に入学する。/当時は普通選挙権獲得運動の盛んな頃で、明大には英国から帰朝した植原悦二郎が政治部部長としておさまり、尾崎行雄らと共に普選運動に拍車をかけていたが、杉町もそうした風潮に刺激を受けて弁論部に入り、入学三ヵ月目には弁論大会に出て三等賞を獲得している。そうなるともはや勉強どころではない。学生たちのなかには日比谷の普選大会に出席し、騎馬警官隊に毎度蹴散らされたりしたものもいたが、彼らを煽動して利用していたのが政友会の鉄心会で、のちに自民党の副総裁になった大野伴睦や真鍋儀十、加藤勘十らがその中核をなしていた。二二歳の青二才に過ぎない杉町たちは、黒木綿の紋付を羽織り、あるいは誰かに借りたフロックコートを着て、長髪に高下駄という壮士然とした格好で、演説会場を回ったのである。/当然ながら大学側はこうした学生側の動きを嫌悪し、学生たちの切崩しにかかった。そこで学生側はストライキを決定。政治科の騒動は法科、商科へと波及して、ついに二万五千の学生は三百人の実行委員を選出し、日比谷の松本楼に本部をつくって対応した。/学校当局はここに至って二七名の学生を放校処分にし、学生に人気のあった笹川臨風、植原悦二郎の二教授のクビを切った。/杉町は、前夜下宿先で書いた檄文を腹に巻いて校内にたてこもったが、勿論彼も放校処分を受けた学生の一人であった。ストライキ学生は危険な社会主義者のごとく宣伝されたおかげで世間がこれを許さず、杉町もこれで全てが終ったことを知って、海外留学に踏み切るのである。/杉町の家はかなりの資産家であったらしく、父親は『これで二、三年英国で勉強してこい』と六千円の金を渡したという。当時六千円といえば大金であった。杉町はそこで英国へゆくかわりにアメリカに渡ったのである。」
 このように、杉町は普通選挙権獲得運動に関係して明治大学から追放処分を受けたようです。
◇「徴集延期」と海外留学
 さて、先の論文の別の文章では杉町が明治大学政治経済学部に入学したのを大正10年(1921)としています。ということは、大学入学時に杉町は22歳だったことになります。ところが、北海学園附属図書館の方に調べて頂いた北海中学の卒業年は、杉町が19歳になった大正7年(1918)3月だとのことでした。先の論文の入学年を鵜呑みにすると、旧制中学を卒業して明治大学に入学するまで3年間も浪人していたことになり、それであれば自動的に20歳には徴兵検査を受けていた筈ですが、「御願書」では大学に在学して「徴兵徴集延期中」であったとしていますから、この22歳で入学したという記述は間違いだと思います。
 本年2月に発行された一ノ瀬俊也著『皇軍兵士の日常生活』によれば、大正時代の帝国臣民男子は大日本帝国憲法、兵役法の規定により17〜40歳(1943年からは45歳まで)まで兵役の義務があり、満20歳に達した男子は徴兵検査を受け、それにより体格別に「甲・乙(第一・第二・第三)・丙・丁・戊」の各種に区別し、甲・乙・丙種を兵役適格とし、甲・乙種は現役兵(全員すぐに入営)または第一・第二補充兵(すぐには入営しないが、必要に応じて召集される)に分類され動員される仕組みになっていました。そこで合法的に徴兵徴集を延期させるには、富裕層の子弟は大学等の上級学校へ進学するか、海外へ出るしか道はなかったのです。
 杉町が大正10年(1921)6月7日に徴兵検査を受けたのは、大学を追放され「徴兵徴集延期」の特権がなくなったためと考えられます。その上、8月には補充兵役に編入され、いつ兵役に召集されるか分からない状態になりました。それで慌てて海外留学に踏切ったとも考えられます。海外にいれば、留学が終わって日本に帰国するまで徴兵を延期することが出来たからです。しかし、杉町が失敗だったのは、徴兵関係機関にその海外留学の届出をしていなかったことで、アメリカに渡航後の年末になって、実家へ大正11年1月2日に現役兵として入営するよう電報が届いたところが、本人不在で「徴兵忌避」として告訴される騒ぎとなったのです。
◇杉町巳之吉のこと
 それにしても「六千円」(現在に換算すると840万円?)の大金をポンと息子に渡して、世間のほとぼりが冷めるまで英国へ行って勉強してこい、といった杉町巳之吉も大した親ですね。大正5年(1916)6月発行の『北見國中野付牛村屯田兵記念帖』によると、巳之吉は明治13年(1880)4月5日、佐賀県佐賀郡兵庫村字藤ノ木に生まれ、明治30年(1897)6月に屯田兵として野付牛に入地、日露戦争では各地を転戦「會寧附近の戦闘に参加し同地占領後凱旋す功に依り勲八等瑞宝章並びに一時金八拾円を賜はる」とあり、除隊時には「上等兵」の勇士でした。
 この巳之吉がどんな仕事をしていたかは、何も情報がありませんでした。ただ、杉町の「御願書」にある住所が「野付牛町二条通東一丁目」と街中になっていますから、農業から離れて何か商売をしていたと考えられました。それで大正12年(1923)8月発行の商工案内『野付牛総覧』を子細に調べてみましたら、本文中には該当者なく、付録の「野付牛電話早見表」の最後に「二○九 杉町巳之吉 北二西一 質店」とありました。住所が「西一」とありますが、「東一」の間違いでしょう。当時の北見地方は第一次世界大中の雑穀景気に沸いていた後で、質屋もそれなりに繁盛していたのでしょう。巳之吉は自分の日露戦争体験から、長男を兵役に就かせるくらいなら海外留学で好きなようにさせたほうが良い、と思ったのかもしれません。また、ブラジルへ家族あげて移民したのも、杉町の留学と何か関係があったのかも知れません。(続く)
《中庭だより》☆今回参考にした杉町に関する論文もそうなのですが、エピソードを紹介しながら、その出典を明らかにしていないのは困りものです。読者が原典に直接当たって色々再検討しようにも、出来ないからです。筆者は、出典をできるだけ明示していこうと思っています。
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