ヌプンケシ169号

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市史編さんニュース NO.169
 タイトルヌプンケシ
平成21年6月15日発行

画像明治大学史資料センター◎杉町 八重充と徴兵制(3) 
                                    
◇明治大学史資料センターから待望の資料届く   
 明治大学史資料センターから以前にお願いしてあった、杉町が明治大学を追放された事件に関する資料類が届きました。早速それらを読むと、杉町は前号で参考にした『米国初期の日本語新聞』の関口英男論文に記されていた「普通選挙権獲得運動」に関係したためではなく、大正9年(1920)12月から約半年にわたる学内改革の学生運動に参加して放校処分されたことがわかりました。これから、その学生運動についてレポートします。
◇いわゆる「植原・笹川事件」
 この事件は明治大学内部では、いわゆる「植原・笹川事件」と称して、当時学生に人気のあった植原悦二郎・笹川臨風両教授の首切りに関係した学生騒動という、余り触れたくない事件だったらしく、『明治大学百年史』を編纂時の、事件から60年後の昭和55年(1980)時点で存命であった運動の中心人物に聞取りをして、具体的な事実が明らかにされたようです。
 次にその首切りされた両教授の略歴を、参考に講談社『日本人名大辞典』で見てみましょう。
 「うえはら−えつじろう【植原悦二郎】(1877−1962)大正−昭和時代の政治家。明治10年5月15日生まれ。明大などの教授をつとめ、のちに犬養毅の要請で国民党にはいり、大正6年衆議院議員(当選13回)となる。昭和7年衆議院副議長。21年第1次吉田内閣国務相、22年同内閣内相。昭和37年12月2日死去。85歳。長野県出身。ワシントン州立大学(ワシントン大学が正しい−引用者)卒。著作に『日本民権発達史』など。」
 「ささがわ−りんぷう【笹川臨風】(1870−1949)明治−昭和時代前期の評論家、俳人。明治3年8月7日生まれ。帝国大学在学中に佐々醒雪せいせつらと俳句結社筑波会を結成。明治42年文芸革新会の結成をとなえる。宇都宮中学校長、明大・東洋大教授などをつとめ、歴史書や美術評論などをあらわした。昭和24年4月13日死去。80歳。東京出身。本名は種郎たねお。著作に『支那小説戯曲小史』『日本絵画史』『南朝正当論』など。」
◇実際の中心人物は?
 しかし、この事件の実際の中心人物は両教授ではなく、「高橋義臣」といい、その略歴は昭和57年(1982)に発行された『明治大学史紀要』第2号で次のように紹介されています。「明治30年(1897)11月23日北海道中川郡美深町にて出生。/大正5年3月北海中学校卒業。大正7年4月明治大学予科政治経済科に入学、同9年3月に卒業。/大正9年4月明治大学法学部政治学科に入学、同10年5月まで在学。/大正10年10月ワシントン大学人文学部政治学科に入学。昭和2年6月卒業(B・A)/昭和7年8月ワシントン大学大学院修了(M・A)/昭和8年9月衆議院嘱託。/昭和11年4月明治大学講師(半期)。/昭和18年陸軍司政官/昭和22年5月明治大学兼任教授(同34年3月まで)。/昭和23年7月衆議院参事。/昭和25年6月衆議院資料課長。/昭和30年12月衆議院請願課長。/昭和34年4月明治大学政治経済学部教授(同38年3月まで、その間に政治学科長に就任)。/昭和38年4月明治大学兼任講師(同49年3月まで)。/昭和41年2月和光大学経済学部教授、現在に至る。その間に経済学科長、経済学部長、和光学園理事、評議員を歴任。」美深町役場の町史編さん事務局の方に調べて頂いたところによれば、高橋義臣の没年は昭和57年(1982)6月3日で、享年84歳でした。
 この略歴で注目されるのは、高橋義臣が美深町出身で、杉町には北海中学の先輩であったということです。ということは、杉町は高橋の影響で学生運動にも参加したことが考えられます。
◇事件の発端は、「大学令」の制定
 高橋義臣の証言によれば、事件の発端は大学令の制定にあったようです。この大学令とは、臨時教育会議の答申に基づいて大正7年(1918)12月6日に公布された大学に関する基本制度を規定した勅令でした。明治から大正へ日本資本主義が独占化へ移行する段階で、それまで専門学校令に基づいて運営されていた私立大学などを帝国大学と同格の大学として承認し、単科大学の設置を認めるなど、時代に応じたエリート供給の大学に制度を改変したのです。また、各部に研究科をおき、総合して大学院とすることができることになりました。大学の年限は3年、医学部は4年以上と定め、在学年限2〜3年の予科の設置も認められました。その大学予科は中学校第4学年修了を入学資格とした場合は修業年限を3年とし、中学校卒業では修業年限2年としました。大学令は、昭和22年(1947)の学校教育法の公布で廃止されました。
◇明治大学の大学昇格
 明治14年(1881)に「明治法律学校」として創立され、明治36年(1903)専門学校令により「明治大学」と改称された明治大学は、大正9年(1920)4月大学令による大学設立認可により名実共に「大学」となることが出来ました。学生側からその経過について、昭和55年(1980)7月に開催された「植原・笹川事件」をめぐる座談会で、高橋義臣は次のように証言しています。
 「僕が入学した大正7年度より予科の修業年限が、1年半より2ヵ年に延長となりました。その理由はつぎのとおりです。大正7年12月に新大学令が公布されるのですが、それに準拠して大学となるためには、当時、大学という名前の専門学校であった私立大学では、予科2年、大学3年の体制を整備する必要があったのです。そこで他の私立大学でも、来るべき新大学令に備えて、予科の年限延長をいたしております。
 さて、明治大学予科には法、政、商の三科があり、それぞれ大学部に進めることになっていた。しかし、僕らが大学部に進むことになった大正9年4月、明治大学は新大学令による大学となったのですが、政治経済学部は設置されないことになりました。それは、一学部を設置するのに文部省へ10万円の供託金を納める必要があったため、資金難であるという理由で、もともと学生数の少なかった政治経済学部は開設されないことになった、ということでした。予科政治経済科から進んだ学生は、法学部と商学部に分けられてしまい、僕も学部は法学部に進んだ。もちろん、この時期以降、予科も法、商の二科となり、政治経済科はなくなりました。政治経済科という名称は、併置された専門部において、政治経済科専門部としてのこることになったのです。※この学制は大正14年7月に政治経済学部の設立が認可されるまで続いた。
 それはさておいて、僕の入学した頃の予科は、英・独の語学が中心であり、他に倫理、論理、国語、漢文、作文などの一般教養講座が配置されていた。最も印象にのこっている講義は、予科長だった笹川種郎(臨風)先生の漢文です。笹川先生は、高山樗牛などと並ぶ赤門出の秀才といわれた文学者で、大変洒落気があり、こちらからお願いすると、漢文の時間をそっちのけにして、得意とされた春信とか広重の浮世絵の講義をされるので、僕らは喜んできいたものです。
 予科の先生は、専任者より講師の方が多かったようです。大学に昇格するための形式要件を備えるための資金的なシワ寄せが、こんなところにも現れていたとみるべきでしょう。」
 高橋義臣ら、予科政治経済科の学生達は大学昇格でシワ寄せを受ける事になりました。(続く)
《中庭だより》☆5月26日、ブラジルから北見へ墓参に来られた方の関係で問合せがあり、そこでいつもお世話になるのが『北見市史』の編集委員長=(故)鈴木三郎先生が作成された資料です。先達の仕事に心から感謝すると共に、自分も正確な資料を遺す責任を感じた次第です。
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